イデオロギー的にも心情的にも、理性的にも感性的にも、山本太郎の言っていることに大いに賛同していいはずであるにもかかわらず、彼の語る言葉にたいしてうまく言葉にできない微妙なひっかかりを感じてしまう。なぜなのかと自分でも不思議に思う。だからこそ、その違和感の在り処をきちんと探り当てるために、山本太郎の政見放送を精読してみる。
どこから始めるかーー「生きたい」という思いの肯定
彼の政見放送は、九州豪雨にたいする被災者へのお見舞いの言葉から始まる。
まず初めに、九州南部豪雨で被災された皆さん、いまだ避難中の皆さんに、心よりお見舞い申し上げます。
彼が続けて述べることによれば、彼の社会意識や政治意識の芽生えは、災害なのだ。具体的に言えば、2011年のフクシマである。
私自身が社会問題を真剣に考える初めてのきっかけが災害でした。2 0 1 1年、 東日本大震災と原発の爆発。生きたいという思いから始まった私の政治のキャリア。でも今、 この国では生きたいとすら思えない人々が多くいます。
あの災害はさまざまに位置づけることができる。もっともマクロな視点に立てば、自然にたいする人間の無力さであるとか、自然災害にたいする人間文明の脆弱さというような、悲観的な意見さえ引き出せるだろう。そうした運命論的な見方は、受動的な諦めのようなものーー「所詮わたしたちは荒れ狂う自然を前に何も出来ない、起こったことは受け入れるしかない」ーーにつながる。
しかし、「自然」災害ではなく、「人為」災害と捉えるのならば、そこでクローズアップされるのは、安全管理のずさんさというマネージメントの問題であるとか、なぜそもそも原発というコントロール不可能な技術を使ったのかという根本論である。そのような立場を取れば、そのような問題を作り出した実際の人々ーー東電であれ、原発を推進した政治家であれ、さらには原発を受け入れたわたしたちであれーーにたいして、怒りを覚えるようになるだろう。そこから引き出されるのは、フクシマの政治責任を問う、というアクティヴィスト的な立場である。
自然=運命論か、政治=人為論か。あきらめか、希望か。
当然ながら、山本は後者の立場を取る。
あなたの生活が苦しいこと、 あなたのせいにされてませんか。これまでの政治による間違った経済政策と、 構造上の問題です。
しかしながら、山本太郎の根本的な立場は、文明無力論とも、政治責任論とも、べつのところにある。というのも、山本がフクシマから受け取ったのは「生きたいという思い」だからだ。
ここには決定的な視点の転換がある。マクロな国のかたちでも、ミクロな政治−経済闘争でもなく、具体的な人々の生をこそ、政治家という仕事の中核に据えることを、山本は高らかに宣言している。
「生活」ではなく「生」を
「生活」ではなく「生」だ。というのも、ここで彼が言っているのは、物質的な生活水準を上げるというような文明的な欲求ではなく、その根底にあるはずの本源的な「生きたい」という生の渇望だからである。別の言い方をすれば、彼の問題の立て方は、「よりよい生活 VS あまりよくない生活」ではなく、「生き死に」なのだ。ここにあるのは、「生きたい」という魂の叫びを圧殺し、わたしたちを生きさせまいとする死の世界にたいする闘争なのだ。
死にたくなる社会から、 生きていたい社会に転換させる。
だからこそ、山本の話は、フクシマの死者/サバイバーのことから現代の自殺問題へと、シームレスに移行していくことになる。生きたかったのに生かせてもらえなかったという意味では、フクシマの死者も、現代の自殺者も、通底する社会問題である。生を軽視する社会にたいする、人間の尊厳を踏みにじる世界にたいする切実な闘争なのだ。
生きさせてくれないこの「壊れた」国
生を否定する力の出処は、自然ではなく、わたしたちである。わたしたちが生きられないのは、わたしたちが自然にそう命令されているからではなく、いまの世界がそのような命令を日々くだしているからである。
おまえは生きている価値があるのか、おまえは生きている価値があるのか、あるというのならそれを具体的に証明してみせろ、もし証明できないのならおまえは無価値だ、おまえには生きている価値などない、死ね。
能力の有無、結果の有無を脅迫的に問いかけてくる死のハラスメント、それこそ、山本が述べるこの国の「壊れている」現状だ。
1年間の自殺者、 2万人を超え、 未遂だけでも50万人を超える。完全にこの国は壊れています。
あなたは自分が生きていても許される存在だと胸を張って言えますか。あなたは自分がただ生きているだけで価値がある存在だと心から思えますか。あなたは、 困っているときに「助けてほしい」と声を上げられますか。山本太郎からの、この問いにすべて、言える、思える、 できると答えられた人、 どれぐらいいますか。そう多くはないと考えます。
なぜなら、 あなたに何ができるんですか。あなたは世間の役に立ってるんですかっていうような空気、 社会にまん延してるからです。
「そう多くはないと考えます」と言うとき、山本が「そう多くはない」方と連帯しようとしていることは間違いない。
「そう多くはない」?
しかし、「そう多くはない」を字義通りに受けとることはできない。もし「生きることが許されていない」と感じる人が本当に少数だとすれば、その状況は、パッチワーク的な修繕でどうにかなってしまうかもしれないからだ。
山本が言おうとしているのは、いまはっきりとそう感じている人、はっきりとそう認めている人は「そう多くはない」としても、潜在的なレベルでは、かなり多くの人がそのように感じているのではないか、という問いかけであるはずだ。
「ただ生きているだけで価値がある存在」
「生きていても許される存在」「ただ生きているだけで価値がある存在」、それは基本的人権の根本的をなすテーゼだ。人権が基本的な「権利」であるのは、その権利を享受する「前」に、わたしたちが何かを成す必要がないからである。
人権は、わたしたちが「人間である」ことによって最初から与えられている。それは生来の贈与であり、わたしたちが何者であるか、わたしたちが何を成したかとは、無関係である。善人にも悪人にも、功労者にも無用者にも、金持ちにも貧乏人にも、性別も年齢も人種も宗教も関係なく、わたしたちの具体的なアイデンティティとは無関係に、わたしたちのひとりひとりに等しく与えられている。
いや、「与えられている」という受動態は不適切だ。というのも、人権は国家によって与えられているものではないからだ。「人間」であることは、「日本国民」であることに先行する。なるほど、人権を「保障」するのは国家かもしれないが、人権それ自体の根拠は国家ではない。言ってみれば、人権とは、わたしたちがわたしたちに自ら与えるのである。
にもかかわらず、「自ら与える」ものであるはずのものが、「与えられる」ものに成り下がり、「与えられる」側と「与えられない」側、「すでに与えられている」側と「与えてもらえるようにお願いしなければいけない」側と「お願いしても与えてもらえない」側に分断されている。人権という平等原理が、カースト制のようになってしまっている。
「障がい者」という政治者
れいわ新撰組が「重度障がい者といわれる2人」を「特定枠」で擁立しているのは、選挙戦略以上のものである。もちろん、冷静な政治的計算がないわけではない。障がい者票を取り込む、というプラグマティックな目論見だ。
さて、 2人の立候補者、発表した際に、こんな声が届きました。「障がい者を利用するつもりか」。この言葉に対して、私は言います。
けれども、そこにすべてを結びつけるのは、山本の政治観を見誤ることになる。ここで彼が提起するのは、誰に政治をする権利があるのか、という問いである。
もう1つ、寄せられた意見。「障がい者に国会議員、務まるんですか」。
当事者とは、その道のスペシャリストです。ALSのふなごさんが、今回の、 ご自身の選挙で作ったキャッチコピー
「強みは、障がい者だから気付けることがある」。
障がい者運動の有名なスローガン、 「私たち抜きで私たちのこと決めないで」。
それは、人権思想や平等原理にたいする彼のコミットメントの裏返しでもあるだろう。つまり、すべての人間が等しく人権を持ち合わせており、それらの権利を享受する権利を等しく持ち合わせているのであれば、誰もが政治をする能力と権利を持ち合わせているという結論が必然的に導かれる。
そこで「車椅子の人が投票できるように国会の建物は設計されていない」というのは、言い訳にすぎない。なるほど、現実はつねに理想や理念のはるか後ろを歩まざるをえないけれども、だからといって、いまある現実の至らなさが正当化されるわけではない。それを実際的なコストや手間によって否定することは、普遍的原理を稀釈することにほかならないし、稀釈された理念はもはや理念ですらない。
必要になってくるのは、実現不可能かもしれない理念をどうにか叶えようとして、決して留まることなく常に理念のほうに歩んでいこうとする強烈な意志だ。「ここまでやったからもういいだろう」という自己満悦に陥るのではなく、「ここまでできたのはすばらしことだ、しかしまだ足りない、これで満足するのか? いや、そんなことはない! さあ、これからも少しずつ進んでいこう」というメンタリティをデフォルトすることである。とどまらないこと、つねに進んでいくこと。
理念を完璧に実現できないことと、それを理由に理念の実現をそこそこで諦めて現状に安住することとのあいだには、決定的な差異がある。そして後者を正当化するのは、原理ではなく、現実のさまざまな些事である。そしてその現実の些事が社会全体に蔓延していけば、それは構造的な暴力となって少数者に降りかかり、そして社会全体を押しつぶしていくだろう。
社会の屋台骨を変える
いまの社会には、そうした構造的な暴力が深いところにまで入りこんでいる。「生きたい」という切実な叫びをシステマティックに沈黙させていく暗黙の構造がある。
わたしたちはその構造に暗黙のうちに加担する共犯者となってしまっている。自分が「生きづらい」と感じながら、他者の「生きづらい」という感情に寄り添うことができないような社会を生きているからだ。自分がいつかどこかでどうにもならない状況に嵌まりこんでしまう可能性があることを心の底で不気味なまでにはっきりと感じていながら、目の前にいる生身の他者のどうにもならない状況を傍観者的に見つめ、好奇の眼差しで遠巻きにするような態度をとらざるをえない世界を生きている。
生産性で人間の価値がはかられる社会、それが現在です。
これが加速すれば、命を選別する社会がやってくる。医療費を口実に、生産性を言い訳に、人間の生きる価値を、期間を、 一方的に判断される時代がもうすぐそこまで迫っている。これらが、雑で拙速な国会の議論で決まっていくのではないかと危惧してます。
誰かの命を選別する社会は、 あなたの命も選別することになる。
問題は、わたしたちが利他的ではないということではない。利他的であることが推奨されない社会において、利他的であることは、いわば異端的な立場であり、それゆえ少数派の立場である。すべてのことがSNSで拡散され、善意が曲解され、悪意と取り違えられかねない社会、フェイクが真実と誤認されて広まってしまえば、もはや訂正不可能になってしまう現代社会において、賢明な行動とは、不干渉と非関与である。
関わらないこと、共感しないことが賢いのだ。こう言ってみてもいい。もし安全な距離を取ることができるならーーコンピュータースクリーンの向こう側であるとか、スマホ越しであるとかーー好きなだけ共感し、好きなだけ人助けをすればいい。しかし、リアルの自分に飛び火しそうなら、逃げたほうがいい。
そのような精神構造は、決して「そう多くはない」人たちだけのものではない。それはむしろ、わたしたちの時代精神である。この時代の空気を変えなければ、本当の意味で「ただ生きているだけで価値ある存在として認められる」世界にはならないだろう。
結局のところ、世の中が深いところから変わるには、本当にミクロなものーーものにふれたときの感じ方、ひととの関係の結び方、過去の思い出し方、空間の作り方、はては体の動かし方や声の出し方にいたるまでーーを変えるほかない。それは、わたしたちの想像力のレパートリーを変えることであるし、究極的には、脊髄反射的なもの、直感的なもの、意識的に考えるまえにやってしまうことを変えていくことである
それは遅く、遅々として進まないものではあるけれど、普遍的に進んでいく必要があるものだ。だから山本の政治は、少数者ではなく、社会の多数者に、社会構造それ自体に狙いを定めているのだ。
「あること」の絶対的な肯定
ここで問題は二重である。ひとつは、「あること」ではなく、「すること」によって、わたしたちの価値が決められているだ。もうひとつは、その価値決定権が、「そう多くはない」方にはないことである。
この状況をひっくり返すこと、「あること」を肯定すること、そして「あること」を肯定する側のほうに価値決定権を取り戻すこと、この二重のプロジェクトーー価値転換の実行と、価値転換構造の奪還ーーこそ、山本のイメージする「社会や政治を変えること」なのだろう。
だから、そんな社会を、 政治を、 変えたいんです。生きててよかった、そう思える国にしたい。それは無理だと思いますか。
私は思いません。
政治を諦めた、政治なんて興味ない、そんな選挙で投票に行かない40%の人々が力を合わせれば、 国は、 社会は、 変えられます。それが選挙、 政治なんです。
「それが選挙、政治なんです」と山本は言うが、ここで彼がイメージしている政治は、わたしたちが一般に想像する政治とはかなりかけはなれているものだろう。もちろん、彼は政見放送の後半で、具体的な政策に言及するけれども、彼が目指しているのは、いまある政治というゲームに勝つことではないからだ。
もし政治をゲームに例えることができるとしたら、山本の言う「国や社会を変える」ことは、いまプレイされているゲームのルールを変えること、ゲームの種類自体を変えてしまうーー同じ球技でも、野球ではなくサッカーをやるーーことなのだ。いや、突き詰めて言えば、政治をゲームの比喩で語ること、「勝ち負け」のような言葉で考えることそれ自体をやめることである。
あなたの生活を楽にする、 あなたが困る前に手を差し伸べてくれる。将来に不安を持たずに生きていける、そんな国づくりの先頭に、山本太郎を立たせてくれませんか。あなたが死にたくなる、 自分に自信が持てなくなる理由の1つ、 生活の苦しさはありませんか。今いちばん必要なことは完全に地盤沈下した人々の暮らしを大胆に底上げすること。詳しくは、 後ほどお知らせします。まずは、 この政見放送を最後まで見ていただけませんか。
意識革命、または価値観の根本からの価値転換
それは革命的な転換だ。重要なのは、山本太郎が右か左かという点ではない。
もちろん、一般的な理解に従えば、彼の政策は「左派」である。消費税廃止、法人税増税、それらは、金持ちから集め、貧乏人に配るという古典的な再分配政策である。奨学金返済にたいする徳政令や数々の給付金といった「バラマキ」政策、それらは、大きな政府路線である。
しかしながら、もし根本のところで、「人間の価値は、その人が成せること、成したことによって決まる」という価値観を保持するのであれば、どれほど大規模な財政出動も、所詮は「温情主義」にとどまってしまうだろう。上から目線の救済措置にしかならないだろう。
それでは駄目なのだ。
わたしたちの人間観を転換すること、わたしたちの価値観を転換すること、そうした根本的な意識革命が、れいわ新撰組の政治プロジェクトである。
なぜ違和感があるのか、または個人主義の限界
おそらくひとつには、山本太郎とれいわ新撰組の政治プロジェクトが、大きな政府による経済政策を前提とした個人主義の極大化で終わってしまっているように見える点だ。
わたしが個人主義の極大化に反対しているからではない。他人や社会からの干渉なしに、やりたいことをやりたいようにやれる自由、それはJ.S.ミルが古典的名著『自由論 On Liberty』のなかで詳述した近代的原理であるし、それには全面的に賛成である。
しかし、強権的な政府からの介入から個人を自由にすることが主眼に置かれていた19世紀後半と、アトム化した個人をいかに社会に再統合するのかという問題が再浮上してきている21世紀とでは、自由のあるべき姿が違ってくる。自由は果たして手段なのか目的なのか。
米山隆一は「論座」に掲載されている秀逸な分析のなかで、山本太郎は「左派ポピュリズムのど真ん中の政策」であると指摘しているし、同じく「論座」掲載の中島岳志の分析も、山本を同じようなところにマッピングしている。安倍自民党が、伝統的というよりは、彼らの理想とする日本社会=共同体を押し付けようとしていることにたいする、対抗的な位置取りであり、山本の政治的嗅覚は見事なものだ。安倍自民党が基本的人権を目減りさせ、国家の安全や社会の安心のために個人の自由を制限しようとしているとき、それに対抗する政治プロジェクトが取るべき第一手が、個人の自由の原理的称揚であるというのは理解できる。
しかし、れいわ新撰組が守ろうとしている個人主義から、連帯につながるようなコミュニティの思考が出てくるだろうか。安倍自民党がイメージするような閉鎖的で均質的な共同体ではなく、多様で多元的な開かれたコミュニティが立ち上がってくるだろうか。この意味で、New York Timesのインタビューで、ジュディス・バトラーが個人主義だけでは不十分であると指摘している点に注目する必要がある。
微妙なヤンキー的なパターナリズム
それから、れいわ新撰組には、きわめて微妙なかたちではあるが、何かしらのパターナリズムがあるような印象を受ける。
れいわ新選組、決意。
日本を守るとは、あなたを守ることから始まる。あなたを守るとは、あなたが明日の生活を心配せず、人間の尊厳を失わず、胸を張って人生を歩めるよう全力を尽くす政治の上に成り立つ。
あなたに降りかかる不条理に対して、 全力でその最前に立つ。何度でもやり直せる社会を構築するため。20年以上にわたるデフレで困窮する人々、ロストジェネレーションを含む人々の生活を根底から底上げ。
中卒、 高卒、 非正規、 無職、 障がい、 難病を抱えていても、 将来に不安を抱えることなく暮らせる、そんな社会を作る。
私たちがお仕えするのは、 この国に生きるすべての人々。それが私たち、 れいわ新選組の使命である。
「あなたを守る」。それは、れいわ新撰組が「守る主体」で、選挙民が「守られる客体」であることをほのめかしているのではないか。なるほど、彼は続けて、自分たちは「お仕え」する存在であり、「この国に生きるすべての人々」が主役であると述べるけれど、ここは、彼が先に述べた平等原理と、どこまで調和しているだろうか。
ここに山本太郎の「ヤンキー気質」を嗅ぎ取るのは、もしかすると非常に不当な批判かもしれないが、下手に出た保護主義ーー「守らせてください!」ーーは、強権的な家父長制ーー「守ってやる!」ーーのバリエーションであって、結局は同根ではないかという疑いを抱いてしまう。「国会内で、 ガチンコでけんかをする勢力」という好戦的イメージからも、似たような香りがただよっている。
単に山本太郎という個人を個人的にあまりに好きになれそうにないというわたしの個人的な「好み」や「印象論」を理論的な装いのもとに正当化しているだけだろうか? そうかもしれない。しかし、「れいわ新撰組」というネーミングにしても、山本太郎たちのパフォーマンスにしても、そこにどこか『ワンピース』的な仲間至上主義の押し付けがましさ、鬱陶しさ、胡散臭さを感じてしまうのだ。
優しい社会という目的?
「優しい社会」と山本は言う。社会のかたちとしてそれがどういうものになるかは、なんとなくはイメージできる。だが、「優しい社会」を作ることが最終目標なのだろうか。
生きているだけで、あなたには価値がある。そう感じれる社会を作りたい。
重度の障がいを抱えていても、難病を抱えていても、人間の尊厳を守れる社会は、あなたが守られる社会です。
全面的に賛成する。しかし、そうした社会でただ生きること、ただ生きることが肯定されることが、最終的な目的であっていいのか。「そう感じられる社会を作ること」は、どこまでいっても手段であって、目的そのものではないのではないか。
現代において政治が埋めるべき空隙
そのような目的について語るのは、おそらく政治の仕事ではなかった。どう生きるのか、なんのために生きるのか、という問いについて語ることだからだ。それはずっと哲学や宗教、文学や芸術が向き合ってきた問いである。それを政治的問いにすることは、政治を道徳や美学の領域に引きずり込むことになる。政治の美学化は、ヴァルター・ベンヤミンが古典的論考「複製技術時代の芸術作品」の最後のセクションで述べたように、ファシズムの典型的手口である。
それが絶対にまずいというのではない。
おそらく21世紀を生きるわたしたちは、資本主義的生産主義と消費主義によって不可逆的なまでに疲弊しきった惑星に生きる地球人として、政治と経済と美学と宗教を分断するのではなく、それらを高い次元で繋ぎ合わせるようなかたちで共同的実践を構想していかなければならない時期に来ているはずである。
しかしながら、まさにその21世紀の政治課題のところで、山本はかなり情感的な、浪花節的な世界観に後退してしまっているように見える。
現在の政治に足りないのは、 この国に生きる人々をおもんばかる気持ち。そして、 この国に生きる人々への投資。愛と金が圧倒的に足りていない。国からの大胆な財政出動で、 あなたの生活を本気で底上げ。それが、 20年以上に及ぶデフレからの脱却の道です。
問題は「愛」の不足なのだろうか。
繰り返すが、現代における政治の難しさは、わたしたちがもはや政治を単にテクニカルな言葉だけで語るわけにはいかないこと、専門的な政策技術論だけですませてしまうわけにはいかないところにある。グランドデザインや想像力について語ることが、いまや、政治の仕事をなしている。それはおそらく、SNSのようなデジタル・コミュニケーションがわたしたちの政治との関係を変えてしまったせいでもあるし、脱宗教化した世俗的社会において政治が擬似宗教的な役割を担わなければならなくなってきたせいでもあるだろう。
だから、山本がここで「愛と金」を併置していることを問題視しているわけではない。むしろ大いに評価している。だから、問題は、この併置が説得的であるか、効果的であるか、という点にある。
わたしは依然としてこの問題にたいする答えを持ち合わせていない。だからそれを言い切った山本の勇敢さを評価するのだけれど、同時に、彼がどんな「愛」を想定しているのだろうかと思う。たしかアラン・バディウも共産主義について論じながら、愛について述べていたと思うけれど、バディウの場合といおうか、キリスト教圏の文脈の場合といおうか、そこでの愛には、恋愛的なものを超越した宗教的な光彩が宿っているだろう。愛が最初から宗教的な概念であるとすら言ってもいい。しかし、日本語の文脈で語られる愛にそのような高い含みがあるだろうか。
山本の言う「愛」は、誰が誰に持つ、どのような性質の愛なのか。水平的な恋愛(カップル間の愛)なのか、垂直的な家族愛(親子間、世代間の愛)なのか、共同体的な愛(郷土愛、愛国心)、アニミズム的なものなのか(自然にたいする畏怖)、はたまた、もっともっと抽象的なものなのか。
そこを明らかにせずに「愛」を濫用するのは、彼が批判する「痛み」を濫用した過去の総理大臣と変わらないだろう。曖昧なかたちで濫用されれば、必ずや愛の不均衡が発生し、愛されるものと愛されないもの、より愛されるものとより愛されないものといった区別や序列が立ち上がってくるだろう。それは平等原理を裏切ることになる。
少なくとも山本太郎の政見放送からはそうした隘路の向こう側に何があるのかを予感することができなかった。彼の掲げる未来の輝かしさと、その輝かしい未来のさらに向こう側の見えなさ、その対比が、どうもわたしを居心地悪くさせているらしい。