うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

資本主義を作り直す理想主義の国家:マリアナ・マッツカート、関美和・鈴木絵里子訳『ミッション・エコノミー』(ニューズピック、2021)

船を造りたいのなら、男たちに木材を集めさせたり、仕事を割り振り命令する必要はない。代わりに、果てしなく広大な海への憧れを説けばいい」

                ――アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

           (「第7章 新しい資本主義へ」のエピグラフ、247頁)

 

目次だけでこの本の主張するところはあらかた読み取れる。内容が薄いからではなく、主張するところにブレがなく、ナラティヴが首尾一貫しているからだ。

マリアナ・マッツカート『ミッション・エコノミー――国×企業で「新しい資本主義」をつくる時代がやってきた』の議論を端的にまとめれば、政治主導の経済改革であり、大きな政府論、ということになるだろう。

ただし、ここで注意すべきは、彼女が国家の役割を見直そうとしている点である。レーガンサッチャーが民営化を押し進め、企業活動を邪魔しないのが政治の成すべきことだという考え方が蔓延するようになった1980年代以降――それは新自由主義の時代、脱規制の自由市場の時代と呼んでもいいかもしれない――政府は市場の監視役でこそあれ、プレーヤーではなかった。もしかすると、キーパーぐらいではあったかもしれないが、フィールドプレーヤーではなかったし、フィールドプレーヤーであるべきではない、という考え方のほうが支配的であった。市場に介入しない小さな政府、大規模な財政出動は行わない政治、民に任せる国家。

マッツカートが本書で提示するのは、市場に積極的に介入する国家であると同時に、プレーヤーでもある国家だ。ただし、そのような国家は、けっして、社会主義のように計画経済を上から押しつけるわけではない。明確な経済政策でがんじがらめにするのではない。そして、プレーヤーとしても、民間企業と競合するライバルではない。そうではなく、国家は、民間企業とタッグを組み、チームの一員としてふるまう。

次のように比喩的にまとめてみてもいいかもしれない。マッツカートの言う国家は、いわば、チームの出資者であり、チームの目標を掲げ、チームを精神的に引っ張るリーダーである。どのメンバーを起用するかという権限を持つ監督ではあるかもしれないが、具体的な練習メニューを決め、きちんとやっているか逐一チェックし、必要とあらば強制するコーチではない。

国家はミッションを提示することで、間接的に、経済に介入する。その一方で、市場プレーヤーである企業のなかで有望なものに投資もする。国家は、資本主義の外部にとどまるのではなく、そのコアにもぐりこんでいく。それは、もしかすると、ゲームのルールを決める側と、ゲームをプレイする側の両方にかかわるという、ある意味ではズルいポジションを占めることかもしれない。しかし、重要なのは、そうすることで国家や政治だけが豊かになるのではなく、社会全体に利益が還元される仕組みを作っていくことである。

 

マッツカートはミッションがなによりも重要であると述べ、その論拠としてアポロ計画を掲げる。本書の副題が、A Moonshot Guide to Changing Capitalismとなっていることからも明らかなように、「月ロケット発射 Moonshot」レベルの一大ミッションが、資本主義を変えるために欠かせないと彼女は主張する。

「いま手持ちのリソースでできる最適解を見つける」という現実主義から、「遠大な目標をまず掲げることで、現時点では不可能なことを可能にするためのブレイクスルーやイノベーションを生み出していく」というマインドセットパラダイムシフトしていかなければ、現在のジリ貧の資本主義に先はない、というのが、本書のメッセージであると言ってもいい。

 

そのような理想主義でうまくいくのか、そのような見切り発車でうまくいくのか、計画倒れで終わらないのか、という疑問は当然出てくるだろう。

それにたいする反証として、マッツカートはアポロ計画を詳述する。アポロ計画は彼女の言う「ミッション」の最適例であり、月に人間を送り込むという前代未聞の一大計画は、現代のわたしたちの生活のいたるところにある技術の萌芽を生み出したのであり、そのようなイノベーションを可能にするためにどのような組織形態や資金繰りが効果的なのかも明らかにした。

リーダーはビジョンを示し、目的を明らかにする。

現場に権限を与えることで、スピードや柔軟性を上げる。

コラボレーションやパートナーシップによって革新を加速させる。

「まだできないこと」に挑むリスクを取り、ハイリスクなところに投資する。

 

これはある意味で、技術楽観論だ。5章の「課題起点のミッションマップをつくる」のなかのセクションに与えられたタイトルはその意味できわめて示唆的である。「「課題」にフォーカスすれば「技術」は後で追いつく」。

利権や腐敗をどのようにして防ぐのか、と現実主義者はしたり顔で疑問を呈するところだろう。では、マッツカートは性善説を信じているのだろうか。

そういうわけではないだろう。資本主義を変えることを提唱するが、資本主義を止めることを主張するわけではないマッツカートは、私的利益の増大そのものを否定しないだろう。かといって、新自由主義の行き過ぎを批判するマッツカートが、トリクルダウン論――富裕層がさらに豊かになれば、その恩恵はめぐりめぐって貧困層にも及んでいくく――を取るとも思われない。

彼女が力説するのは、私的利益と公的利益を対立的に捉えるのではなく、共生的な在り方を模索することの重要性だ。

道徳を変えるのではなく、価値観を変えること。

私的利益の追求を否定するのではなく、それを至上目的とはしないこと。

共通の目標に向かって協力すること、パーパスのあるミッションにコミットすることを、わたしたちみんなの目指すところとすること。

そのためにこそ、わたしたちみんなが、価値の共創にかかわっていくこと、つまり、市民参加型の民主主義が必要であること。

 

マッツカートが現代のミッションとして掲げるのは気候変動への対応である。だが、はたして、これがアポロ計画ほどに「憧れ」をかきたえるものだろうか、という疑問はある。

アポロ計画は、いわば、失敗したとしても、人類の生存を脅かすものではなかった。その意味では、失敗することもできたものであったのではないか。

しかし、気候変動に対応するというミッションはそうではない。このミッションに失敗することは、世界の人々の生活を危うくするだろう。失敗が許されないミッションである。

月に人類を送ると言うミッションは、ゴールが明確だった。ミッションの終わりが誰にもイメージ出来ていたはずだ。しかし、気候変動に対応するというミッションのゴールはそうではない。大気中の二酸化炭素量、気温上昇、海面上昇というような「数字」は、わたしたちが直感的には感知できないものだ。かりにこのミッションが達成されたとしても、わたしたちはそれを、誰かに教えてもらわなければならないだろう。達成の瞬間は、月に降り立つアームストロングのように、象徴的なシーンにはならないだろう。

気候変動に対応するというミッションには、どこか、悲観的なトーンがあるのかもしれない。グレタ・トゥーンベリの声や表情に浮かぶのは、怒りや嘆きであり、歓びではない。

それは当然のことではある。未来を奪われた子どもたちの正当な反応ではある。

しかし、そこから、アポロ計画に匹敵するような憧れに充ちたミッションのナラティヴを作ることができるだろうか。

そこにこそ、資本主義を止めるのではなく、資本主義を公共的な方向に作り直していくためのキーがあるように思う。