うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230831 ボトムアップ型の社会主義のために何が必要なのか。

一九世紀末と二〇世紀初頭は福祉国家の創世期であり、福祉国家の鍵となる制度は、まさに、その大部分が、国家とはまったく無縁の相互扶助集団によって創り出され、その後、国家や政党がそれらを徐々に取り込んでいったのだった。右翼も左翼も、大半の知識人がこの点では完全に協力関係にあった。ビスマルクが全面的に認めていたように、彼はドイツの社会福祉制度を労働階級にたいする「賄賂」として創ったのであり、その目的は、労働者が社会主義者にならないようすることであった。社会主義者が譲らなかったのは、社会保険から公共図書館に至るまで、すべては、それらを創った近隣住民集団や組合員集団ではなく、トップダウンの前衛党が運営すべきだという点だった。この文脈のなか、右と左の両方が、クロポトキンの倫理的な社会主義的提案をたわごとだと却下することを、最重要命令としたのである。(デヴィッド・グレーバー、アンドレ・グルバチッチ「PM Press版の『相互扶助論』によせた序文」)

19世紀末の政治のメインストリームは、右も左も、労働者にたいして何かすべきだという方向性(そう思った理由は違うにせよ)では一致しており、かつ、それを「上から」与えなければいけないという点でも一致していた。だからこそ、イデオロギー的には食い違いつつも、政策レベルでは右と左の連携が成立しえたわけである。そのような右と左の呉越同舟にあって、「ボトムアップ」に社会主義的なものを創出しようというクロポトキンの計画は、どちらにとっても受け入れがたいものであり、だからこそ、左も右も躍起になってクロポトキン的な提案をそもそもなかったことにしようとした、というのがグレーバーとグルバチッチの議論であると言っていいだろう。

 

さて、しかし、果たして「ボトムアップ」の社会主義で現在の資本主義的な危機を乗り越えられるのかというと、どうなのだろうか。とくに、日本のように、平成の大合併によって、地方自治体が以前にも増して、生活の現実とは別の論理によって再編されているように思われる今、ミュニシパリズムのようなものさえそもそも成立するのだろうかという疑いは拭いきれない。

当然ながら、ボトムアップ社会主義やミュニシパリズムが成立するところはあるだろう。しかし、それが普遍的に妥当な選択肢(かつ唯一無二の選択肢)だとはどうも思えない。

小規模であることの利点はあるが、大規模の利点もある。福祉国家の強みはスケールであり、巨大組織だからこそできるものがある(たとえば社会保障制度)。

 

おそらく、すべてをローカルでまかなうのではなく、トップダウン的な「システム」(顔の見えないもの、人を「数」として扱うようなもの)と、ボトムアップ的なもの(顔の見えるもの、人を「人」として扱うもの)のミックスが落としどころになるのではないかという気もする。

ただし、「人間的な」ボトムアップ制度を稼働させるには、「効率性」というイデオロギーそれ自体をまず降格させなければならないし、もしかすると、抽象的な意味での「平等」という概念すら修正されなければならないかもしれない。というも、たとえば、行政が市民をひとりの生身の人間として扱うということは、そこにある種の親密さを持ち込むこと、その人をいまそこにはいない他の誰かよりも大事に扱うことを理論的には意味するだろうから。抽象的な意味での「平等」と、実践的なレベルでの「親身さ」はおそらく衝突するだろう。

こう言ってみてもいいかもしれない。抽象的な意味での平等とは、生身の人間を抽象的な存在として扱わなければ不可能なのだ、と。

 

ということを考えていたら、「責任」の問題が浮かんできた。

過去の共同体は(いや、昭和時代ぐらいの自治会もそうだろうか)、コミュニティの人間が死んだら、葬式を手伝う義務があった。それは同じ場所に住んでいるから(地縁)というただそれだけの事実によって発生する義務であった。

しかし、現在、わたしたちは、血縁というかたちで繋がっていない他人にたいして、果たさなければいけない責任という概念をほとんど喪失しているのではないだろうか。責任を引き受け「なければならない」ことが抑圧的なのは間違いない。しかし、その反対にある、可能なかぎり責任を引き受けないことが一般化した結果、責任を「あえて」引き受けることがあたかも不自然であるかのように見えてきてしまっているのではないか。

なぜわたしたちは「あえて」面倒を引き受けようとするのか。

 

ミュニシパリズムを再興していくというのは、経済的なものとしての平等や公平(払った対価に相当するサービス)という概念を変形させ、ある種の不均衡を肯定的に受け入れていくプロセスになるのではないか。

そのためには、新自由主義のなかで作り変えられてきた価値観(自由な責任の回避、等価性や効率性の重視)そのものを批判的に作り直していかなければならないのではないか。