うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

平等から始めよう:ジャック・ランシエール、松葉祥一・上尾真道・澤田哲生・箱田徹訳『哲学者とその貧者たち』(航思社、2019)

平等「から」始める

知性と感性の平等というランシエールの議論の根本にあるテーゼは、考えるほどにわかりづらくなる。ランシエールにとって、知性と感性の平等は出発点であり、到達点ではない。不平等を存在論的な事実=真実として受け入れてしまえば、平等を理念的な目標=目的として持ち上げてしまえば、是正されるべき「いまここ」から目指すべき「いつかのどこか」の途上のどこかで、起源に置かれた不平等が何らかのかたちで再帰してくるだろうし、そうなってくれば、不平等を無理やり押し込めるしかなくなってしまう。現実を根本から否定するのでなければ、理想にたどりつけないということになってしまう。だから、平等から始めなければならないのだ。平等は「いまだ‐ない」到達目標ではない、「すでに‐ある」のだ。

 

どのような平等?

ここまではよい。しかし、わたしたちがみな瓜二つの同一の存在であるというようなことをランシエールが言っているとは思えない。すべての人間が量的にも質的にも完全に同じ知性と感性を持っているわけではない。そんなことは、デジタルな世界でしか、デジタルなコピーが可能なヴァーチャル・ワールドでしかありえないだろう。アナログな存在であるわたしたちは、絶対に、なんらかのかたちで互いに異なっている。機会の平等だとか結果の平等のような社会的なレベルではなく、肉体的なレベル、生物的なレベルにおいて、絶対に異なっている。近代社会が導入しようとした、そしていまだ完全なかたちでは成し遂げられていない法の下の平等は、制度的な平準化である。わたしたちがたとえ互いにどれほど異なっていようと――年齢的に、性別的に、人種的に、階級的に、思想的に、宗教的に、趣味的に、などなど――、法という観点からすれば、すべてのひとは何の分け隔てもなく同一の扱われ方をする、というものだ。特権の排除、特例の拒否と言ってもいい。しかし、ランシエールが言う知性と感性の平等とは、生物的所与や社会的所与にたいする法制度的な上書きではない。では、それはどのような意味での平等なのか。

 

潜在能力の普遍的な所与性

能力を数量化するのはゲーム的思考であり、まったく褒められたものではないとは思う――はたして能力は数量化できるようなものなのか、数量化されたものはすである特定の目的を念頭に置いて局所化されたものであり、プレーンなものではありえないのではないか、と疑ってかかって然るべきであるし、ランシエールの主要主題のひとつであるpartageがまさに分割と共有という分節の問題(生の「素材」をいかに加工して「材料」に転じるか)を扱っていることを思えば、数量化という安易な分節法に依拠すべきではないとは思う――けれど、その思考法にのっとってあえて端的に述べれば、ランシエールの言う知性と感性の平等とは、みんなのさまざまな能力の具体的な数値が同じ(具体的な相対的平等)なのではなく、わたしたちのだれもが同じ種類の能力を等しく持ち合わせている(メタ的な平等的分配)、ということなのだと思う。ランシエールのいう平等とは、何かをする/になるための能力的な可能性がだれにも等しく与えられていることであるように思う。潜在能力の普遍的な所与性、とでも言えばいいだろうか。パラメーターの項目はみんな同じである、そのどれかが絶対的にゼロということはない、そして、どのパラメータもある一定の数値まではかならず伸ばせるようになっている、という意味での平等。

だれもが同じ種類の能力をすべてデフォルトで持ち合わせているということと、その能力の具体的な優劣が個々人のあいだに存在するということは、矛盾しないだろう。たとえば、だれもが政治をやる能力を本来的に持っているということと、政治をやるのに適した性向について個々人のあいだにバラつきがあるということは、矛盾しないはずだ。フレームワークの設計や構造レベルでの平等と、具体的なパラメーターの数値レベルでの不平等は、両立するはずだ。ここで重要なのは、だれもが潜在的にはどんな役割を果たすだけのポテンシャルを持っており、それゆえ、どのポジションも究極的には交替可能である、ということだ。古代ギリシャアテネにおける民主制の役職決めが「くじ引き」によって行われていたというのは、そういうことだろう。だれでもできる簡単な仕事だからというのではなく、だれもがその仕事をこなすだけの能力を絶対に持ち合わせている、ということだろう。

 

カースト制度の否定、全般的な可塑性の肯定

裏を返せば、ランシエールは自然化され、固定化され、永続化されたカースト制を否定しているのだ、と言ってしまっていいのかもしれない。わたしたちが持って生まれる能力は、「これこれのことしかできない」というような特殊で限定されたものではない。「あなたは何にでもなれる」という無責任な楽観主義をランシエールが支持しているわけではないだろうけれど、「これにはなれない、あれになってはいけない」という禁止条項がわたしたちの身体や精神にあらかじめ書きこまれているわけではないということは、ランシエールの基本的な態度をかたちづくっているように思う。ランシエールの賭け金は、所与の分配の質的な公平性(量的な同一性ではなく)と、わたしたちの全般的な可塑性に置かれているのではないか。

もっとわかりやすく説明するには、ポジションのあるスポーツ――サッカーや野球――にたとえたほうがよかったかもしれない。ランシエールのいう平等性とは、ポジションのローテーション可能性のことだ、と言ってよいだろうか。ファースト「しか」できないプレイヤーとか、DF「しか」できないプレイヤーはいない。だれもが、どのポジションについても、それをやるのに必要な条件を満たしていないことはない。なるほど、ピッチャー「向き」のプレイヤーはいるだろうし、ストライカー「向き」のプレイヤーはいるだろうが、だからといって、バッターに向かってボールを投げたり、ゴールに向かってボールを蹴りこんだりする能力が絶対的に欠けているわけではない。 

平等は事実であり、真実である。平等はすでにわたしたちに与えられており、わたしたちのものである。だから、わたしたちは、平等を基本に社会を設計し、平等なかたちで社会的な生を組織し、平等をラディカルにすみずみまで行き渡らせることができないはずがない。

 

水平的分業の現実から垂直的序列の価値観へ

しかしながら、平等という出発点をラディカルに敷衍した思考はなかなか立ちあがってこない。わたしたちはあまりにも性急に自分の「適性」を探し求め、適性のあるポジションに「特化」してしまい、その結果、汎用性を失っていく。専門化すること、それはえてして一般性と特殊性のあいだのゼロサムゲームであり、不可逆的になるきらいがある。もちろん、オールラウンダーは稀だし、すべてのパラメーターをまんべんなく上げようとして中途半端になるよりは、パラメーターを絞ってそこに特化したほうが、平均から突出するためには効率的なやり方だろう。しかしながら、この便宜的な戦略に過ぎなかったもの――ポテンシャルにはオールラウンダーになれるが、戦略的にDFに特化する――が、抑圧的な命令に転化し――おまえの能力ならDFをやるのがいちばんいい――、固定化した再生産システムにすり替わるとき――おまえはいつもDFをやってきたんだから、それをやれ、おまえにはそれ以外のポジションは無理だ――、所与の時点では単なる「ちがい」でしかなかったパラメーターの数値的な偏差が、「上下」や「優劣」といったランキング制的な不平等に向かうための出発点となるだろう。

問題なのは、所与の数量的な不平等ではないし、特化や分化――マルクス主義的な語彙を使うなら、分業――ではない。とくに後者は、社会的な生を生きる人びとが自然に思い至るようなものである。すべてのことを自分一人でまかなえること、それはもしかすると、全人的存在としての個体が望む完全に自律的な生かもしれないが、有限な存在であるわたしたちには持続不可能なライフスタイルだろう。文明史的に考えてみても、分業がもたらした余暇や、余暇がもたらした非‐生存的創作――生き抜くために必ずしも必要でないもの、役に立たないものをつくること――の意義ははかりしれない。だから、問題は分業そのものではない。問題なのは、分業を自然化し、固定化し、永続化し、絶対化することだ。数量的な「ちがい」(事実のうえでの差異=区別)を肯定し続けることによって、質的な「不平等」(価値判断における序列=差別)を自明なものにすり替えてしまうことだ。

ランシエールはこう問いかけているように思う。いかにしてわたしたちの質的な一般的平等性を出発点として、所与の時点にある数量的な具体的不平等性を出発点としないようにするか。いかにして質的な平等から出発して、質的な平等性によって量的な不平等性を包摂するか。そうであればこそ、ランシエールは、量的な不平等性から出発して、それを質的な不平等性に転化していく思想にたいして批判的なのだ。量的な不平等性を再生産することで、それをシステムとして安定的な構造に仕立て上げるような思想にたいして徹底抗戦を挑むのだ。

 

4つのケースが考えられるだろう。

1.不平等から不平等へ。それはカースト制であり、差別主義的な思想のほとんどがこの世界観に立脚しているだろう。本質主義的な差別主義であり、そのために、呪詛や烙印のような神話的、魔術的な操作が引き合いにだされるだろう。神に呪われた民族、禁忌を犯したものたち、罪を背負うものたち、けがれた集団、というように。

2.不平等から平等へ。この態度はもしかすると、温情主義的な、上から目線の、傲慢なリベラリズムなのかもしれない。おまえたちは劣った存在であるが、普遍主義的なものを信じるわたし(たち)は、おまえを同等の存在として扱ってやろう、というわけだ。もちろん、本質的な不平等ではなく、歴史的に作られた不平等の是正を通して平等な社会を目指そうという「下から」の平等主義には、そのような偉そうさはない。そこを混同しないように注意しなければならない。しかし、このアファーマティヴ・アクション的な「下から」の平等志向は、所与の平等性をどこまで肯定しているかだろうか。

3.平等から平等へ。これがランシエールの立場であり、それはアファーマティヴ・アクション的なものと対立しない。ランシエールは、自分の理論的立場を、「すでに」平等が達成されているというような現実肯定のための口実には使わないからだ。それはむしろ、現実にある不平等を変えるための理由であり、足掛かりである。その意味では、2と3は重なり合う部分が大きい。

4.平等から不平等へ。神話的なもの、民話的なものは、不平等を肯定し正当化するナラティヴとして機能する側面がある。創世記の初期においてひとびとはみな平等だったが、何らかの理由で、そこから転落した、というナラティヴである。旧約聖書にはそのようなエピソードに事欠かない。そして、ランシエールが本書で糾弾するのは、前提における平等を認めながら、そこに不平等を導入するものたちである。自らを序列の上のほうに位置づけるナラティヴを創出し、そのような世界観に従って世界を組織しようとするものたちである。そうしたものたちは、ここでは、哲学者と呼ばれる者たちである。

チェスタトンはどこかで「あらたな社会システムを構想しておいて、自らを被支配者側ではなく、支配者側のほうに置くような人間を、わたしは信用しない」と述べていた。ロールズの「無知のヴェール」で言おうとしたのも、似たようなことだろう。もちろん、宗教的な音調や倫理的な態度においては大きな隔たりがあるし、そこから引き出される結論はかなり異なったものであるように思うけれど、彼らが等しく批判にさらすのは、ヒエラルキーを構想するさいに、自分(と自分が属する集団や階級)をそのなかで優位なポジションに位置づけようとする自己中心的な狡さである。

 

プラトンマルクスサルトルブルデューに抗って

ここでランシエールが敵対するのはプラトンマルクスサルトルブルデューだ。彼らはみな、基本的には、マテリアリズム的な認識=存在論を受け入れている。 

生きるためには労働と生産が必要である。生活の糧なくしては精神生活も社会生活もありえない。しかし、誰が生産=労働するのか。こうして分業が導入される。食べ物を作るもの、家を建てるもの、服を縫うもの。さまざまな生活必需品の生産に特化する人々が現れる。生産者たちは水平的な関係にある。どれも必要だからだ。必要の度合いや必要なところが違うだけだ。しかし、必要性を組織し管理しようとするとなると、生産者とはべつの存在が要請されることになる(と哲学者たちは考える)。そうした存在は、生産者と同じ俎上ではなく、べつの階層に置かれることになる。こうして水平的な分業関係から、垂直的なエンジニアリングやマネージメント関係が生まれてくる。そこでは、便宜的でしかなかったはずの分業が、あたかも自然で正当なものであるかのように偽装されていく。生産に携わるものと、生産を上から管理するものとが、分離されていく。

ランシエールが糾弾するのは、分業そのものではないだろう。もしそうであれば、彼はいわばモリス的な全人的生産者を要求することになってしまう。そうした美的生活にむかう方向性がランシエールにないとは言わないが、彼にはそこまでの美学至上主義は感じない。そして、これはなかなか興味深い点だと思う。ランシエールアルチュセールの生徒のなかでも美学的傾向の強い人であるし、実際、文学や芸術について領域横断的に幅広く書いている――たとえばエチエンヌ・バリバールが政治哲学的なものを中心に比較的限定された特定領域内で幅広い仕事をしているのとは対照的である――けれども、ランシエールの趣味がどのあたりにあるのかは、いまひとつよくわからない。マラルメについての著書があるが、だからといってマラルメ的なモダニズムの擁護者というわけではないし、フローベールについて書いているからといって、ブルジョワ的な反‐ブルジョワというひねくれた皮肉を全面的に肯定しているわけでもない。19世紀の労働者文化について造詣が深いからといって、いわゆる労働者文化だけを手放しで絶賛しているわけでもなさそうである。おそらく、傾向としてはハイカルチャーよりなのだろうが――ランシエールポップカルチャー的なものについて言及しているところを見たことがないのだけれど、実際はどうなのだろう―――、ブルデューのように「高級文化」を上層階級の専有物とみなし、それをディスタンクシオンの指標に使うことには反対である。もちろん、ランシエールが自身の美的趣味について言明しなければならないなどという理由はどこにもないし、それを開示しろと迫るほうがむしろ理不尽なのだとは思うものの、ランシエールの美学に関する文章を読んだときにいつもふと感じるのは、彼の美的趣味にたいする疑問である。

 

価値のヒエラルキーVS混淆的な平等性

貴族主義的な価値のヒエラルキーと、現実に存在する混淆的な平等性。このふたつはけっして解消できないだろう。しかし、だからといって、どちらかをもう一方に無理やり解消させてしまうのは間違っている。ここで糾弾対象となる4人の哲学者たちは、後者を認識しながら前者を優越させてしまうという意味で、同じ過ちを犯しているということになる。

きわめてフランス的な本だ。20世紀中盤と後半をそれぞれ代表するフランス知識人サルトルブルデューが槍玉にあがっているからというのもあるが、それにもまして、議論のすすめ方がフランス的であるように感じる。執拗なまでの網羅性。この厳密な書き方にはフランスの高等教育における知的訓練の最良の側面と不毛な側面の両方が如実に見て取れる。マルクスの章がもっとも掘り下げらているのは、ランシエールアルチュセールのもとでマルクスについて学んでいたからだろうけれど、プラトンについての章もかなり深い。1次文献の深い読み込み、2次文献の広いリサーチ、どちらも学者たるものの基本的作法ではあるけれど、それがきわめて綿密で、しつこいほどに詳細なのだ。

正直、ここまで長く書く必要があったのかと思ってしまう。たしかに、ランシエール本人が序文で述べるように、彼の他の本にくらべれば直截的なスタイルだし、乱暴なまでの単純化――いかにして哲学者たちは存在論的な水平性を裏切り、価値論的な垂直性を正当化するか――にもとづく一本鎗な議論ではある。しかし、だからこそ、もっと短くまとめられたのではないかと思ってしまう。

 

喜劇の問題

面白い論点だと思ったのは、ヒエラルキー的価値観の肯定と悲劇愛好の関係性だ。悲劇とは死のなかでの生の肯定であり、喜劇とは生のなかでの死の肯定である。好まれるのはドン・キホーテであって、サン・チョパンサではない(138頁)。たしか『ドイツ・イデオロギー』のなかでシュティルナーはサンチョになぞらえられていたと思うのだが、その意味でも興味深い指摘だろう。マルクス主義は喜劇的なものを、ジャンルの混淆的なものを嫌うのだろうか。

マルクスを議論しながら、ワーグナーの『マイスタージンガー』を持ってくるという独創性には驚かされるし、ここにある民衆的なものと貴族的なものの対立が、マルクス主義に持ち越されるという見方も、きわめて興味深い。もちろん本書はバイロイト百年祭におけるあの衝撃的なパトリス・シェローピエール・ブーレーズによる19世紀産業社会に翻案された『ニーベルングの指環』以降に書かれたものだから、ワーグナーマルクスを結びつけること自体はとりたてて独創的ではないし、ワーグナーを19世紀政治思想や運動と関連させて『指環』を読むという方向性はすでにジョージ・バーナード・ショーが先鞭をつけていたのだから、なおさらオリジナルな論点とは言いがたいものではあるけれど、ユダヤ問題的な方向からではなく、ジャンルやテーマの混淆という美学的観点からの比較は、それでもやはり面白い。ベックメッサーがヘボなソフィストプチブルだというのは、刺激的な論点だ(126頁)。たしかに彼はヴァルターという騎士の霊感もなければ、ザックスという親方の技術もない。だから彼がコピーするものは不完全であるばかりか、欠陥品でもあり、その意味ではソフィスト的な洗練すら持ち合わせていない。

マルクス主義は、批判対象を、喜劇の領域のほうに追いやるのだろうか(たとえば『ブリュメール18日』におけるルイ・ナポレオン)。マルクス主義的なものにたいする対抗軸を考えること、それはもしかすると、喜劇的なものを真面目に考えることかもしれない。

真面目な喜劇というのではない。それではつまらない喜劇になってしまう。くだらない(ようにみえる)喜劇をまじめに考えるのだ。アイロニーは中断と宙吊りに終わってしまい、行動不能に陥りがちである。フローベールポール・ド・マンが良い例だろう。それはテクストにおいて自らの批判的立場を結晶化させるというエクリチュール的実践にしか着地できないだろう。

ランシエールによれば、マルクスのあやまちとは、自らを芸術家になぞらえ、自らの著作を芸術品のように扱ったことだという。それは、科学信奉にもまして、自らの自律性を称揚することである(ところで、一般に素朴な科学信仰を抱いていたのはエンゲルスのほうであり――『自然弁証法』!――マルクスのほうは科学に懐疑的だったと思われているが、ランシエールはそれがまったく逆であると主張する(213頁)。彼らの書簡をひもとけば、エンゲルスのほうが科学についてはるかに慎重であり、マルクスのほうが無批判的であるという)。ともあれ、科学信奉にしても芸術信奉にしても、それらは同じことだろう。社会との距離を確保し、その距離を正当化し、自らを社会から隠遁させることになる、という意味では。

 

デカルトの例、または哲学者とその貧者の幸福な対話

哲学者の罪、それは問題の所在(根拠のないヒエラルキー的な分業=搾取関係)を見抜きながら、自らを価値序列の上のほうに割り当てることによって、下に置かれた人びとの望みを見下し、価値低下させ、棄却することである。下に置かれた人びとから潜在能力を奪い、代弁されなければならない存在に格下げすることである。なるほど、そうすることによって、哲学者はかならずしも支配者の層には入らないだろう。彼ら(と男で呼びかけてもよいだろう)は依然として、権力者にたいしては、被支配者に留まるかもしれない。しかし、彼らはマテリアルな権力闘争において負けるとしても、イデオロギー的な価値観闘争においては勝つのである。すくなくとも、自分たちを、マテリアルな勝ち負けとはべつのところに位置づけ、外れ値的な自分たちに特別な役割――社会全体の価値観の形成であるとか、マテリアルな意味での被支配者の代弁――を割り振ることによって。

この意味で、デカルトは稀有な例外であるらしい。冒頭に置かれたエピグラフで語られるのは、デカルトが当時の平民に天文学を手ほどきしたというエピソードである。それは、機械的世界観を奉じたデカルトだからこそ、逆説的に、人間の潜在能力の普遍性を信じることができたのであり、だからこそ、知性と感性の平等を字義通りに受け取り、真の意味での知の民主化を実践できたということなのかもしれない。