うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。客観的な解説と主観的な描写のあいだの埋まらないギャップ。

特任講師観察記断章。英語の音の連結や脱落のルールを教えるのはそれほど難しくないが、実践させるのはなかなか骨が折れる。

たとえば、どうすればNot at allが英語らしく響くか。Not/ at/ allという三つのブロックのあいだがつながる――子音で終わり母音で始まる場合、音がくっつく――というのが基本的な音韻ルールだとすると、実践のためのノウハウは、No/ ta/ tallというふうに分割して読むというものだ。単語と単語のあいだの空白を無視して、単語の途中に分割線を入れる。数を切り替えると言ってもいい(3/2/3を、2/2/4にする)。このほとんど直感に反するような、視覚的なもの(目に見える単語間の空白)を聴覚的なもの(耳で聞こえる音のグルーヴ)で無理やり上書きするようなやり方をマスターしてからというもの――たしかこれが身についたのは留学2年目くらいだったような気がする――英語の音をつなげるのがかなり楽に、とても自由に、そしてまったく無意識のうちにできるようになっていったという自分の成功体験があるので、この自己流をプッシュしてみるのだけれど、それが学生に通じるかというと、どうもそうでもない。

どうすれば音が「ハマる」かは直感的な部分が大きいし、そこにどのようなイメージを付与するかということになると、これはもう個人差が大きすぎるように思う。あるひとつの感じ方――わたしの感じ方――を言語的に描写することはできる。文学研究をする人間に言わせれば、それこそまさに文学的な領域だ。プルースト的な文学宇宙に属するものだ。しかしそれはやはり「わたしの」感じ方であって、「感じ方そのもの」ではないし――個人的にプルーストはそこまで好きではないのだけれど、それは、個人的なものでしかない感じ方をあたかも感じ方そのものであるかのように提示してくるところ、上から目線で力づくで押しつけるのではなく、オルタナティヴを描き出さないことによって他の可能性をやんわりと封じこめる婉曲的なところに、何か腑に落ちないものを感じるからだ(とはいえ、『見出された時』に書かれていることを字義通りに受け取るなら、プルースト本人はこのあたりの問題など最初からすべて承知のうえでやっているようだし、その根底には、個人的なものでしかないものを深く深く追求するという実践を描き出すことによって、それを読む読者のうちにプルーストのものではない読者自身の個人的な世界が開けてくるだろうという希望があるようではある)――、このプルースト的方法のために動員されるのは、比喩であったり寓意であったりするわけで、その意味では、どこまでいっても、「…のような」とか、「たとえば…」というような間接性や媒介性が残る。完全に透明にはなりえない。

一方において、論理ほど自律的ではないが法則とは言ってよいであろうルールについて合理的な説明を与え、他方において、自分の経験や感性を拠り所にした言語的記述を与えるという二面作戦で教えてはいるものの、この客観的な解説と主観的な描写のあいだには、どこか埋まりきらないギャップが残っている。しかし、おそらく、このどうしようもないもどかしさが、対面でライブで多人数相手に教えることなのだろう。