うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

反効率的な愚直さから作り出される流動的で水彩画的な透明感:グッドールのワーグナー

響きを透きとおらせるには何が必要なのか。個々の奏者が正確な音程を出せることは大前提ではあるが、それ以上に決定的なのは、個々の音のあいだのバランスであり、マスとしての全体の音のあいだに出現する重層的で複数的な関係性なのだと思う。指揮者はそれを基本的に外側から意識的に調整し、奏者は基本的に内側から直感的につかみとるのではないだろうか(もちろんこれはかなり単純化した言い方であり、実際はこのふたつの極のあいだを柔軟に揺れ動くものであるはずだ)。

これは恐ろしく時間のかかる作業だ。どれほど個人技のレベルが高いとしても、それをチームとして機能させるには、集団としての経験値が必要になってくるからだ。オールスターを集めた臨時オケが必ずしも超一流のオケにはならい理由がこれだろう。裏を返せば、たとえ個人のレベルは超一流とは言いがたいとしても、徹底的なリハーサルによって、しかもパート別のリハーサルというさらに厄介で面倒なプロセスを踏むことで、オケ全体のマスとしての響きの整理度や透明度を高めることは充分可能である、ということでもあるはずだ。

レジナルド・グッドールによる英語歌唱のライブ録音の『指環』や、原語歌唱であることがむしろ残念なスタジオ録音の『トリスタン』や最晩年の『パルジファル』のライブ録音を聞くことは、執拗なリハーサルと長年の経験によってたどりつける不思議な高み――素材的には決して超一流ではないのに、最終的に出てくるものは超一流の団体すら作り出すことのできない音になっている――について考えることでもある。

クナッパーツブッシュに私淑したグッドールだが、響きのバランスはむしろ英国的といっていいところがある。響きが薄いのだ。中身がギュッとつまったドイツパンでもなければ、中に空気を含むフランスパンともちがう。むしろナンやピタのようなフラットブレッドのような感じがすると言ってもいい。だから響きが「薄い」というのは、すでにかなり価値判断の入った言い方だろう。フラットブレッドはフラットであることが普通であり、それを膨らんだパンに比べて薄いと批判することは、膨らんでいるパンが正常であり、そうでないパンは異端であると決めつけてかかることであるのだから。

薄いというのがいまいち適切でないとすれば、水彩画的と言い直してみてもいい。グッドールが引き出す響きのバランスが、そもそも、ヴォーン・ウィリアムズブリテンのスコアが本質的に持っているものと近いように思う。たしかにグッドールは『ピーター・グライムズ』以降の室内楽的方向に進んだブリテンと袂を分かってしまったし、グッドールの指揮した『ピーター・グライムズ』はワーグナー的な豊饒な響きのほうに引き寄せた解釈になっているけれど――とくにホルンの重奏のリッチな響きにそうしたニュアンスを感じる――、グッドールの体臭とでもいうべき響きは、低音を土台にしてその上に他の音を次々と積み上げていくドイツ風というよりは、バイオリンやフルートやトランペットの高音域がそもそも持っている金属的な透明感を表布として使い、そこにオーボエクラリネットビオラやチェロといった木材的な温かみのある中音域を裏地として当てていくという英国風のものだと思う。力業とは無縁の音であり、厚塗りが可能な油彩画の肉感的なボリュームとまったく違う音だ。音を無理に混ぜないことから生まれてくる爽やかな淡さであり、緑が芽吹き出した春の自然の気持ちのいい空気のような清澄さだ。

旋律の流れを主体に組み立てているとも言える。旋律主体の音楽を作っているという意味ではないけれど、グッドールの音楽はメトロノーム的な意味で縦のラインをピタリとそろえることにこだわっていないし、縦をそろえることから生まれてくる音圧、音の重みというものをむしろ忌避しているような感じもある。横のラインが重なり合い、それがハーモニーとして響き合う。すべてを旋律としていつくしみ、いつくしむようにすべてのラインを歌う。すべてが歌で出来ている。その意味で、彼の音楽は流動的に重層的な歌だ。

グッドールのワーグナーは、爆発的な音の咆哮を求める聞き手からすると、肩透かしだろう。それはおそらく、グッドールの指揮者としての技術不足のせいでもあるのだと思う。YouTubeには彼が振っているところを記録した映像があるけれど、どう贔屓目に見ても上手い指揮ではない。

 ザッツはわかりづらいし、キューになっているのかすらあやしい手つきだ。奏者のほうを見ず、うつむいて楽譜をずっと見ているせいか、オーケストラを指揮しているというよりは、スコア・リーディングをしているようにしか見えない。リズムもわかりにくいし、彼の身体の動きから音楽は流れ出てこない(カルロス・クライバーはまさにその点において天才的だった)。

しかし、力押しがない代わりに、彼の指揮する音楽には、すみずみまでひとつひとつ手を入れることによって初めて可能になる愚直な繊細さがある。なんとなく流している箇所がない。指揮者の方も、奏者の方も、すべての音符を単に音にする以上の仕事をしている。それは当たり前のことではあるけれど、ワーグナーのオペラのように、作品の規模が長大であり、オーケストラや歌手の人数も膨大である場合、とんでもない時間と労力を必要とする仕事になるだろう。

グッド―ルのような音楽を作ることが今日ますます難しくなっているのは、そこまでの時間を取ることが物理的に不可能だからであることはまちがいない。しかし、それよりもさらに本質的な問題としてあるのは、そこまで愚直なまでの丁寧さを実践しなくても、それなりに優れた音楽を作ることが可能だからだろう。多少弾き飛ばしても、多少理解しないままでも、時間芸術である音楽は必ず前に進んでいくし、高い技術がある音楽家ほど、音化がもたらすある種のマテリアルな感興――音自体の美しさ、技術的な卓越性、器械運動的な躍動感、有無を言わせぬ疾走感、暴力的なまでの音量――で聞き手を納得させられてしまう。

グッドールの演奏について、オケが弱いとか、もっといいオケを振っていたらと嘆くことは、かなり的外れだろう。なるほど、チェリビダッケもグッドールと似たようなことを、もっとずっと優れたオーケストラ相手にやったし、チェリビダッケの作り出した音楽はグッドールより技術的にはるかに高いレベルにあるけれど、それは可聴的な音のレベルでそうあるだけで、音の向こうにあるもの、音響の先にある精神的なものの表現という意味でいえば、グッドールの仕事は決してチェリビダッケに劣るものではないし、それはもっと有能なオケと臨時で組むことによって成し遂げられるようなものではなかっただろうと思う。

グッドールの音楽づくりは、非力だからこそ選ばざるをえなかったマイナーでネガティヴな選択肢であったのかもしれない。しかしそこには、同時に、敬虔なまでのワーグナー愛があった。すべてを、あえて確認する必要がないところまで、いまいちど、みんなで一緒にもういちど向かい合ってみること。それはもはや、宗教的な態度を要求する異様な行為だろう。少なくともそれは、効率性というものをまったく度外視した行為である。

そのくせ、彼の演奏には霧がかった神秘性のヴェールはまったくない。すべてがきわめて明晰であり、どんな小さな細部までもが、フレーズとしてクリアに響く。しかし、グッドール自身が語っているところを聞くと、彼自身は決して明晰な人物ではなかったように感じるし、明晰に語るための言葉を持っていなかったように思う。

 

それにしても、あれだけ抽象的な新バイロイト様式を嫌ったクナッパーツブッシュに私淑しておきながら、そして第二次大戦中はナチの思想にかなりコミットしていながら、グッドールの振った『指環』の演出がまったく自然主義的なものではないSFチックなものであったこと、そうした現代的演出を大いに称賛していたという話を聞くと、なんとも腑に落ちないものを感じる。それに、ここまでワーグナーの音楽をすみずみまでいとおしむように愛していながら、ドイツ語の発音にそれと同じくらいの配慮をしていないのも不思議ではある(『トリスタン』の録音はとくにそうだ)。結局のところ、彼が愛したのは音楽であり、音楽の言葉でもなければ、その意味でもないし、ましてや劇の視覚的側面でもなかったということなのだろうか。グッドール自体が矛盾の塊であったような気がするのだが、その一方で、彼の音楽はきわめて首尾一貫している。それが不思議でならない。