うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。不感症的な(と言いたくなる)動かない身体。

特任講師観察記断章。還元的に言えば、リズムは個々の音のあいだの長短の関係(時間)、ノリは個々の音のあいだの強弱の関係(質量)、イントネーションは個々の音のあいだの高低の関係(ピッチ)。そして、英語において個々の音のコアをかたちづくるのが音節であるから、音節を無視することは、基本の基本をおろそかにすることにほかならない。というような英語観に立脚する今年度は、さまざまなクラスで音読するテクストの単語を音節に分割し、アクセントのつく音節をマークするという課題を出しているのだけれど、自分の見るかぎり、このプラクティスに納得している学生は少ないようである。

とあるクラスで3週間かけてジョニ・ミッチェルのBoth Sides Nowをカバーしたのだけれど、そのクラスのために使った教材を再利用して、べつのクラスでやってみたのだけれど、最後まで学生の反応は微温的なところを出ることがなかった。

自分としてはかなり丁寧にリードしたつもりではある。まず歌をいちど通常の歌詞カードを見ながら聞かせて、そのあとで、音節で分割したお手製の歌詞カードを見ながらもういちど通しで聞かせる。それから、1番だけ数回リピートして、音節をカウントするように少し拍子をとるように促す。

次は、二人組で、片方が打つ手拍子に合わせて、もう一方が音節数を意識しながら読んでみる。まずは1番だけ数回やってもらい、その後、また音楽を聞く。慣れてきたら、2番3番をやってもいいことにする。

拍子に音節をハメることが少しできてきたら、今度は、歌詞のなかにある弱強のリズムを説明し、どの音節が強く、強い音節がどのようなノリを作り出すのかを説明する一方で、日本語と英語のちがいを音楽的な側面から簡単に説明する(強いイントネーションをつけて日本語の文章を読んでもなかなか歌にはならないが――逆に謡いになるのでは?――英語には強い拍動や抑揚が内在しているので、アクセントやリズムを強調していくと、言葉に宿っている旋律が浮かび上がってくる)。その後、音節数だけではなく、弱強のパターンにも注意しながらペアで読ませる。

ここまではCODAで使用されたカバー・バージョンを聞かせてきたが、いちどジョニ・ミッチェルのオリジナル・バージョンも途中まで流し、インスト・バージョンを流して歌詞を思い浮かべながら聞いてもらう。

これらのプラクティスを踏まえて、音読課題にしてあったTOEICのPart 5の文章に再度立ち戻り、5センテンスほど読んでもらい、最後のしめくくりとして、もういちどBoth Sides Nowの歌詞を朗読。

40‐50分ぐらいのプログラム。教室に行くまでは、「ちょっと使ってみるかな」ぐらいの腹づもりで、どう使うかまでは詰めていなかったのだけれど、TOEICのPart 5の文章を朗読させたところ、あまりに不出来だったので、迂回が必要だなと思い、急遽上記のようなプラクティスにスイッチしてやってみたのだけれど、わたしが聞くかぎり、前の方に座っていて律儀にやっていたペアの最後の朗読は、歌詞の旋律性がうっすらと聞こえてくるようなものになっていたのだけれど、学生のほうで腑に落ちていたようには見えないまま終わった。

なんだろう、学生が曲を知らないからダメなのか。歌詞が分かりにくいからダメなのか。しかし、Both Sides Nowのキャッチ―さなら、初めて聞いても、歌詞がわからなくても、響くものがあると思うのだが。いや、長く音楽をいろいろやってきたせいで、音を数えたり拍子をとったりすることの難しさを甘く見すぎなのか。

ともあれ、ひとつまちがいなくわかってきたのは、学生たちが英語をあまりにも「口先」だけで捉えていることだ。とはいえ、大学生相手に、英語を使った体操的プラクティスというのもないだろう(というか、そういうことを日常の授業で行うのはいかにも場違いな気がする)。もしそのあたりの英語的身体感覚を小学校英語で養ってくれるというのなら、大いに歓迎だが、どうなんだろうな、そのあたりは。ともかく、そのような英語的身体も持ち合わせている大学生がやってくるのはまだまだ先のことになるだろう。

いまの多数派であるこの不感症的な(と言いたくなる)動かない身体を持つ目の前の学生たちを動かす方法をどうにかして見つけないといけない。