うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。学びにおける初歩の重要性。

特任講師観察記断章。毎度のことながら2コマ連続の3時間以上の長丁場のなか、50人以上の学生の強勢と抑揚と発音を聞き続けるのは骨が折れる。先学期は、個々の音の発音を、舌の位置から息の出し具合、音高や音価といったミクロなレベルでトレーニングした。今学期は、それを踏まえて、センテンスやパラグラフを正確に効果的に読む方向にシフトしている。

10%ぐらいの学生はかなり高いレベルで英語の呼吸をマスターしたなという感じがした。間の取り方、音の伸ばし方、リズムの作り方、音の入り方といった、マニュアル化しづらいファジーなところが直感的なところにまで内面化されており、我ながら驚いた。30%ぐらいは、そのような呼吸をつかみかけているが、完全に手中に収めるには至っていない。40%ぐらいは、マニュアル的に定式化したことはできているが、腑に落ちないまま型を機械的に反復しているきらいがあり、一進一退を繰り返している。20%ほどが依然として暗中模索状態。

週1の20数人の授業で20週でここまでたどり着けたのだから、なかなかたいしたものではないかと自画自賛してしまう。

しかし、根本的な問題も明らかになってきた。

マクロなほうに意識を向けようとすると、どうしてもミクロな部分がおざなりになってしまう。そこで露呈してきたのは、日本の英語教育では、そもそも出発点の時点で辞書的に正しい音を教えていないのだという悲しい事実だ。

発音のことを身体運用レベルではほぼ手中に収めた学生がいま突き当たっているのは、個々の単語の音が分からないという事態である。イントネーションはきわめて巧みなのに、なんということはない簡単な単語(たとえばlawとかcauseとか)で読み違えてしまう。二重母音であるところを長母音にしてしまい、長母音を二重母音にしてしまう。アクセント位置がずれてしまう。単純な知識レベルにおける誤りがある。料理上手な人が砂糖と塩を間違えて作ってしまったような、そんな朗読に遭遇すると、びっくりしてしまう。

学びにおける初歩の重要性を思い知らされている。