うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

小澤征爾という問題:東洋が西欧に喧嘩を売るために犠牲にしたこと

小澤征爾を聞くと、柄谷行人の言葉を思い出す。アメリカに行って、デリダやド・マンのようなことを英語でやることはできないと思ったが、言語の言語性に依拠しない純粋な論理が焦点となる分析哲学のような領域であれば渡り合えると思った、というような発言が思い出される。
 
小澤の音楽は、西洋音楽を、純粋な音の構築物、音そのもののダイナミズムに変換していくようなところがある。躍動する論理としての音楽、論理的な肉体としての音楽。
明晰であるほどに、その異形さが際立ち、不気味さがいやます。
 
小澤征爾の指揮はかなり細かい。大きな身振り、肩口まで手を振り上げて手刀のように振り下ろす所作に目を奪われがちだが、小澤の技術的卓越性は、細かい拍や変拍子をまるでメトロノームのようにきっちりと振り分けるところにある。
ミクロなレベルでの鼓動を、マクロなレベルでの脈動にピタッとはめることができるのは、小澤のリズム感覚がいわばデジタル的で、好きなだけ細かく分割可能でもあれば、複層的な流れをいつでも好きなようにシンクロさせられる余力があるからだろう。
小澤ほど楽譜を虚心坦懐に音にしている指揮者も珍しいのではないか。彼の演奏と比べると、ブーレーズのような指揮者たちがいかに楽譜を自分の美学に従って再構成し、独自の音響世界を捏造しているかがわかる。ブーレーズが万華鏡の鏡のような増幅装置だとすると、小澤は何も足さず、何も引かずに自らを透過させる透明な媒体だ。
 
小澤の演奏では、楽譜のなかの幾何学的なパターンーーたとえば、低い声部と高い声部に割り振られているがゆえに、純粋な音としては対位法して聴認しがたいもの――がびっくりするほどクリアに響く。
しかし、このあまりにも正確無比な音の愉悦に身を任せていると、別の疑問もわいてくる。
はたしてこのような純粋な音の運動が、4拍子が完全に均等な4等分になっている数学的で幾何学的な音響世界が、音楽として愉しいのか、という疑問(それは、NHK交響楽団はもちろんのこと、サイトウキネンオーケストラにも通底する問題だ)。
 
それはもしかすると、小澤の音楽が、アタックの瞬間的な鮮烈さには気を配りつつも、アンサンブルとしての持続的な厚みにはわりと無頓着なところとも、関係しているのかもしれない。
つまるところ、西欧の音楽家たちのリズムやメロディには、微妙なタメやノリがある。それはデジタルに言えばズレなのだけれど、そうした微細なハズシがアジとなっている。
そのような伝統的な惰性をすべて洗い流し、すべてを書かれた音符を基点にして立ち上げた単なる純粋な音に還元したところに、小澤の卓越した無国籍的、無歴史的、無時間的な異化作用があったのだろう。
 
そのようなラディカルな抽象化は、中和剤としてはすばらしい。
 
しかしこれを単体で讃えていいのかとなると、どうしても言い淀んでしまう。
小澤の演奏の浅さ、薄さ、軽さは、かけがえのない美点であると同時に、東洋の島国の一個人が、西欧数百年の伝統に、徒手空拳で喧嘩を売るために引き受けざるを得なかった副産物であるようにも思う。
小澤のテクニックの純粋さが引き立つのが、アイヴズのような意図された混沌や、武満のような東からの西への挑戦、または、バッハのような幾何学的な秩序であるというのは、さもありなんというべきところである。