うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

稀有な凡庸、特異な凡庸:ネヴィル・マリナーのジャンル的な演奏

ネヴィル・マリナーの演奏は凡庸だ。マリナーはカラヤンに次ぐ大量録音記録保持者らしいが、カラヤンが良くも悪くもトレードマーク的なスタイルを持っていた――カラヤン・レガート――のにたいして、マリナーの録音は特徴に乏しい。彼の演奏から聞こえてくるのは、マリナーという指揮者の個性でもなければ、オーケストラの個性でもない。作曲者の意図ですらないような気がする。

マリナーがわたしたちに届ける音は、「クラシック音楽」というジャンルそのものではないかという気がする。個の独自性というものを基準に考えれば、マリナーの演奏はどうしようもなく平凡であると結論せざるをえないのだけれど、ジャンル的なものを純粋に表現することの困難――というのも、みずからの特異性を押し出しても駄目であるし、かといって、完全に引いてしまっては音が死んでしまい、音楽が生きてこない――を思うと、マリナーは実は桁外れに凄いことをやっているのではないかという気もしてくる。

 

マリナーはヴァイオリン奏者上がりの指揮者だ。指揮者になりたくてなったというよりは、なるべくしてなったと言うほうが正しいのかもしれない。

1950年代後半にアカデミー室内管弦楽団を創設したが、最初のうちは、指揮者ではなく、奏者兼リーダーという形態であったという。ピエール・モントゥーに見いだされ、彼のもとで指揮を学び――モントゥーもまたヴァイオリン出身の指揮者だ――指揮者に転身し、60年代から録音を開始していく。

個人的に興味深いのは、オーケストラ奏者としてのマリナーは、コンサートマスターではなく、セカンド・ヴァイオリン奏者――1954年から69年までロンドン響の首席セカンド・ヴァイオリン奏者を務めている――だったという点である(ここで思い出すのは、現代音楽の室内楽を語るうえで欠かせない存在であるアーヴィン・アルディッティもまた、ロンドン響のヴァイオリン奏者であったという点だけれど、アルディッティはファースト・ヴァイオリン奏者だったようである)。

オーケストラのセカンド・ヴァイオリンは、目立つことが少ないパートだ。目立たないことがその存在理由であるとすら言っていい部分すらある。いてもいなくても変わらないな感じがするが、いなくなるとその不在にそれとなく気づかされる――そうした内声部の悲哀を引き受けているというわけでもないのだろうけれど、マリナーの演奏はつねに誠実であるように思う。丁寧なのだ。愚直と言ってもいい存在感がある。

 

とはいえ、マリナーの演奏で繰り返し聞くのは、アナログ録音後期に相当するDecca(またはArgo)との初期録音だけではある。そのなかでもチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」は突出している。

音にたいする集中力が飛びぬけている。解釈的に面白いところがあるわけではない。解釈というよりは、心もち速めのテンポで細かなパッセージがバシバシとはまっていくという的確な運動性に生理的な快感があって、それを味わうために聞く録音ではある。しかし、それでも、ここには、技術的卓越性には還元できない何かがある。

あたりまえのことを、あたりまえにやる。しかし、そうするときに極限的な熱意をもって、極限的な集中力で、極限的なところまで音楽の密度を高めようとする。演奏そのものにたいする極度の没入によって、音を突き抜け、音楽を追い越し、音と音楽の向こうにある超越的なものを現出させる。しかしその超越性は、おそらく、音についてのものでもなければ、音楽についてのものでもないだろう。

楽器を弾くこと、アンサンブルをすることについての超越性だ。それは奇跡のような状態なのだと思う。マリナーが録音によってそれほどまでの高みに到達できたのは、デジタル録音以前のほんの10年ほどのあいだのことであったし、なぜかそれは、ブーレーズやジュリアード四重奏団の突き抜けた音の時期と重なる。そうした特異な時代というものが歴史にはあるのだろう。マリナーもまたそうした特権的な時代を体現することができた稀有に凡庸な存在ではなかっただろうか。

 

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