うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ベルクとプッチーニの近さ:イタリア人指揮者とイタリアオケによるイタリア語歌唱のドイツオペラ

イタリア語で歌われるとベルクがプッチーニからさほど遠いところにいるわけではないことが直感できる。

彼らの室内楽的なアンサンブルは、リヒャルト・シュトラウスのものと比べると、響きの層に中抜けがある。それはマーラ―の9番の系譜に連なる不安定な音響だ。最高音のレジスターにあるフルートと、最低音のレジスターにあるコントラバスが、そのふたつを橋渡し的にサポートする中音域なしに、ダイレクトにコミュニケーションするというような「遠い」対話だ(音域的に遠いだけではなく、音質や音色の面でも異なるし、オーケストラのなかで座る位置が離れているという意味でもあるから、この遠さは三重のものである)。または、ある特定のレジスターに属する楽器群(たとえばピッコロとバイオリン)だけからなる局所的な対話。

彼らの音楽は、土台と本体と装飾といった階層構造に依存しないし、低音は土台で高音は装飾といった分業制に固執しない。だから彼らの音響はたくさんの空気をはらむのだけれど、それは、虚ろな余白をかかえることでもある。

そのような音響は、どれだけ大音量になっても、空間を充填しない。欠けている音域があるからでもあれば、音と音の関係が即興的だからだ。既存の青写真にのっとって音を安定的に積み上げるのではなく、その場その場の状況をふまえてもっとも適切な重ね方を新たに発見しなければならないかのように。もちろんこの傾向はプッチーニの音楽では原理的なレベルにまで徹底されてはいないし、新ウィーン楽派に属するものだ。その極北くるのはウェーベルンである。無調期に入る前の爛熟して腐敗寸前のロマン主義的音楽を書いていたシェーンベルクは音域を埋め尽くす傾向にあったし、それは12音技法時代の作品にもどことなく引き継がれている気がする。ベルクはおそらくその中間にある。

タイトルロールにティート・ゴッビを迎え、ニーノ・サンツォーニョがローマ・イタリア放送交響楽団を指揮した『ヴォツェック』を聴きながら、そんなことを考えてしまう。放送録音なのだろう。ホワイトノイズはあるが、1955年のイタリアの非正規録音にしては、かなり聞ける。しかしその功績のかなりの部分は、サンツォーニョの指揮にあるはずだ。

マリピエロに作曲を、シェルヘンに指揮を学び、20世紀の現代オペラを数多く指揮したというサンツォーニョは、ときとして野暮ったいほどに厚いベルク音の綾を、いちどきれいに解きほぐし、それらをもういちど丁寧に重ね合わせていく。旋律のラインを叙情的に歌わせているから、音楽が停滞しない。縦の響きや共時的な構造というよりも、横の流れや通時的なダイナミクスによって音楽を作っていくという手法は、シェルヘン譲りのやり方だろう。音の重心が若干高く、ロッシーニモーツァルトだと、やや落ち着かない印象も受けるけれど、音の重心がそもそも可変的で流動的であるベルクの場合、古典では弱点になりかねない部分がプラスに作用している。

音を外にスッと開いていくような響きは、語末の子音によって音が鋭角的に区切られるドイツ語よりも、長音の母音が多く開放的な響きのするイタリア語と、よくマッチする。これはイタリア語歌唱だからこその演奏だ。

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