ヴィクトル・デ・サバタの凄さはその軟体的有機性にある。オーケストラの音の組み立て方は、大雑把に言えば、縦線で瞬間的に合わせるか、横線の流れとして合わせるかのどちらかだが、サバタのやり方はそのどちらとも言えない。縦線が合っていないわけではないが、低い音をベースにしたピラミッド型の積み上げではないし、かといって、様々な音をフラットに配置しているのでもない。とてもよく歌ってはいるけれど、主旋律を際立たせてそれ以外を伴奏にしているのではないし、かといって、すべてを旋律として自律させてフーガのように組み合わせているというのともちょっと違う。すべての音をそれぞれ自由に動かすことと、すべてをシンクロさせることを、まったく別々に、しかし同時に行っているような感じがする。どこにも基準となる軸がない。それでいて、全体は有機的に結びついている。
もしかするとサバタの音楽作りにもっとも近いことをやっていた指揮者はミトロプーロスかもしれない。奇しくも、ふたりとも完璧な記憶力の持ち主であり、指揮台での悪鬼のごとき激しい動作で知られている。世代的にもわりと近い。サバタが1892年生まれ、ミトロプーロスが1896年生まれ。そういえば、ふたりとも作曲家でもあった。
サバタはピアノとヴァイオリンに秀でていたばかりか、オーケストラのさまざまな楽器を高度なレベルで演奏できたようで、「これは無理だ」という奏者にたいして、その場で実演して見せたという逸話がいくつも残っている。フリッチャイにも同じような逸話があったことが思い出される。
サバタの最後の公式録音となったのはスカラ座とのヴェルディ『レクイエム』で、それが1954年のことだったから、てっきり50年代後半には亡くなっていたとずっと勘違いしていたのだけれど、サバタは重度の心臓病により指揮者として隠退しただけで、67年まで存命だった。英語版ウィキペディア――なぜかイタリア語版よりもずっと詳しい――によれば、ウォルター・レッグは60年代半ばに、フィル管を振るオファーを出したり、プッチーニの『トゥーランドット』の補筆を依頼したりしたそうが、どちらも実現しなかった。サバタは数学の問題を解くのを愉しみ、音楽界に復帰することはなく、世を去った。
サバタがトスカニーニの後任としてスカラ座の音楽監督になり、27年から53年まで在任であったことは知っていた。けれども、今回、英語版ウィキペディアを読んでみて、サバタとトスカニーニの関係はかなり微妙なものであったことを初めて知った。おそらく、もっとも大きな要因は、サバタがムッソリーニと親しい関係にあったことではないか。サバタが1950年にアメリカに客演したとき、それがもとで一時拘留されたというのは日本語版ウィキペディアでも触れられているが、英語版ウィキペディアによれば、「ベニート・ムッソリーニの息子ロマーノによると、デ・サバタはイタリアの独裁者の「個人的友人 a personal friend」であり、ムッソリーニの自宅ヴィッラ・トルローニアで「演奏会を何度か」開いていた」*1。
そのことを念頭に置くと、サバタがトスカニーニ以来二人目となるイタリア人指揮者として1939年にバイロイト音楽祭で『トリスタンとイゾルデ』を振ったというのは、かなりいかがわしい出来事ではなかったのかという気がしてくる。トスカニーニは1931年に早々にバイロイトと手を切り、ザルツブルク音楽祭にしても1937年を最後に手を引いている。サバタのベルリンフィルとの歴史的録音(ブラームスの4番、リヒャルト・シュトラスの『死と変容』、ワーグナーの『トリスタン』前奏曲と「愛の死」など)も1939年のこと。だとすれば、年代的には素晴らしいクオリティで録られているこれらの音源を手放しで称賛するのはためらわれる。しかし、母はユダヤ系だったというから、よくわからないところでもある。サバタと同い年のワルター・ベンヤミンは1940年、アメリカへの亡命がかなわないことをはかなんで、自ら命を絶ったのだった。
サバタは生粋のオペラ指揮者だったのかもしれない。サバタの録音はどれも、聞いた瞬間に凄さがわかるというたぐいのものではない。響きにはインパクトがあるし、よく歌ってもいる。しかし、何か突出したものがあるのかというと、そうでもない。だから、即座に惹き付けられるという感じはしない。しかし、聞いていくうちに、音楽の流れに絡めとられていく。それどころか、音楽を聞いているというよりも、ドラマを体験しているという気がしてくる。音楽が添え物であるかのようにさえ思えてくる。まるで音楽が表現するものが本質であって、音はその手段でしかないかのように。
トスカニーニがサバタの音楽作りにあまり好意的ではなかったというのは、わかるような気もする。トスカニーニがいわば再現可能なかたちに磨き上げられた音楽を求めたとしたら、サバタが求めたのは、演奏のたびに異なるような、しかし、異なったかたちでそれぞれが充足しているような、そのようなシンギュラーな音楽だったのではないかという気がするから。
サバタはラヴェルの『子供と魔法』を初演しており、ラヴェルから称賛の言葉を受け取っているが、プッチーニからはそこまで評価されていなかったらしい。しかしながら、サバタの音楽作りは、まさにプッチーニに呼応した、調性内に留まるポスト・ロマン主義音楽にフィットしたフリーハンドという感じがする(ミトロプーロスの音楽作りが、ポスト調性的なモダニズム音楽にフィットしたフリーハンドであるのように)。作曲家サバタの作る音楽は、どうやら、ポスト・リヒャルト・シュトラウス的なものであるらしい。サバタの作る音楽は、作曲家としてのものであれ、指揮者としてのものであれ、異化的ではない。その意味で、サバタの音楽は、音楽史的な隘路にあるような気もする。彼の路線を継ぐ者はあらわれないだろう。
サバタの非正規録音はどれも音質がひどい。40年代50年代のスカラ座の放送録音はほぼ例外なく劣悪な音質なので、当然と言えば当然だが、サバタのライブ録音はそのなかでも状態の悪い部類に入るだろう。20年ほど前、MEMORIESから出ていた1951年のスカラ座での伝説的な『ファルスタッフ』の録音を持っていたけれど、正直、トスカニーニによる1937年のザルツブルク音楽祭での録音以下の代物で、何が凄いのかまったくわからなかった記憶しかない。しかし、今回、YouTubeにあったものを改めて聞き直して、思ったよりずっと悪くないことに気がついた。というよりも、サバタの作る音楽が、音響や音色といった音質依存的なものではなく、全体の流れによるものであると思って聞くと、ずいぶん面白いものに聞こえてきた。
マリア・カラスとの正規録音であるプッチーニ『トスカ』こそ、サバタのドラマ的感性が十全に記録されているものであり、その意味で、フルトヴェングラーの『トリスタン』に相当するものだ。どちらも、ライブ録音ならではの、生き生きとした、その場限りのものでしかないシンギュラリティには欠けているけれど、それを補って余りある音質の良さがあるし、なにより、きわめてよくコントロールされたドラマ性がある。たしかにそれはあまりに客観的で、作りこまれすぎているのかもしれないけれど、それと同時に、指揮者の頭のなかにあった理想の(完全ではないにせよ、かなり高度な)具現化ではあるだろう。
飛び抜けた記憶を持つ者は、時代を問わず、一定数は存在しているだろう。現代の指揮者のなかにもそのような特殊能力を持っている人々は存在しているはずだ。しかし、サバタの指揮をすべてにおいて引き継いだ者はいたのだろうか。スカラ座で彼のアシスタントを務めたジュリーニ(1914年生まれ)は、カンタービレを引き継いだのかもしれない。戦前に親しく付き合ったカラヤン(1908年生まれ)は、ドラマチックさを引き継いだのかもしれない。バイロイトに客演したさい、前夜からトイレにこもってリハーサルを盗み見たというチェリビダッケ(1912年生まれ)は、シンギュラーな音楽の出来事性を引き継いだのかもしれない。幼少期にサバタの音楽を生で聞いたマーゼル(1930年生まれ)は、外連味のようなものを引き継いだのかもしれない。しかし、誰にしても、サバタにあるポスト・ロマン主義的な情緒は相続しなかったのではないか。ミトロプーロスのモダニズム的な激情を相続した者がいなかったように。
サバタのような指揮者はおそらく二度と現れないだろう。だからこそ、彼が残したごく少数の録音は、依然として、これからも、忘れがたい途切れた可能性として、残り続けるのではないかという気がするのである。