クレメンス・クラウスのモダニズムを継承した指揮者はいなかった。それとも、誰も彼のモダニズムを継承することはできなかった、と言うべきだろうか。繊細なフリーハンド、鷹揚な正確さ、抒情的な客観性、プラグマティックな完璧主義。20世紀の前衛音楽の両方の系譜――調性に踏み留まる音楽と非調性に乗り出していく音楽――を取り上げる一方で、19世紀の後期ロマン主義を20世紀に持ち込むような時代遅れの音楽の擁護者。新音楽を取り上げすぎて聴衆から疎まれる一方で、聴衆に愛されたニューイヤーコンサートの創始者にして、リヒャルト・シュトラウスのスペシャリスト。
クラウスの指揮は緻密にして繊細だ。見透しのよい立体感は、正確なリズムと凛としたアーティキュレーションの賜物だろう。しかし、クラウスの音楽の真の魅力は、技術的なところではなく、そのような技術的な卓越性から匂い立つ何ともいえない華やかさのほうにある。停滞を嫌うかのような速めのテンポを基調としながら、聞かせどころはしっとりと歌わせる。きわめて技巧的な、作為的でさえある音楽作りだが、その作為性がなぜか趣味の良さの証に聞こえてくる。理詰めでありながら、最終的にはセンスで音楽を作っているようにも感じられるし、感性に頼っているようで、根本的なところは理性でさばいているような感じもある。
1893年生まれ。バレーダンサーの母と、資産家の名士を父に持つ非嫡出児(貴族筋の私生児という噂もあった)。ウィーン生まれのウィーン育ち。合唱団出身で、オペラの合唱指揮から、歌劇場の音楽監督まで上り詰めたクラウスは、ナチの圧力で辞任を余儀なくされたエーリッヒ・クライバーやクナッパーツブッシュの後釜としてベルリンやバイエルンの国立歌劇場のポストを手中に収め、ナチの後押しを受けてザルツブルク音楽祭の総監督の座を手に入れている。
若手の発掘に熱心で、ユダヤ系音楽家の救出に尽力したが、日和見な態度があだとなり、戦後はナチ協力を疑われることになる。1947年に非ナチ化裁判で無罪を言いわたされてからは、各地に客演し、Deccaに多数の録音を残すことになる。1952年のザルツブルク音楽祭では、戦前にドレス・リハーサルまで済ませながら本番を行うことができなかったリヒャルト・シュトラウスの『ダナエの愛』を初演し、1953年にはバイロイト音楽祭で保守派の反感を買ったウィーラント・ワーグナーの新バイロイト様式に寄り添うような指環全曲とパルジファルを振っている。
しかし再建予定のウィーン国立歌劇場の音楽監督をめぐる争いに敗れ、失意のうちにメキシコへの演奏旅行に出かけ、客死する。1954年のことだった。*1
「Prima le parole - dopo la musica!」クラウスがリヒャルト・シュトラウスと共同執筆したシュトラウス最後のオペラ『カプリッチョ』のなかで、詩人はそう言うが、このセリフはクラウスの音楽にも当てはまる。クラウスほどオペラの言葉を音楽に昇華させている指揮者はいない。言葉のひとつひとつがどのように旋律に当てはめられ、どのようにオーケストラの音と呼応するのかを、すべていちど検証しているのではないかと思わされる。ことさらに言葉が強調されているわけではないけれど、クラウスの指揮では言葉が音楽と完全にフィットしている。旋律の添え物として言葉があるのではなく、言葉そのものから歌が生れてくる。言葉に内在するリズムや響きが、旋律を媒介して、音楽に昇華されている。
クラウスの音楽は、きわめて言葉的で、歌的なのだ。どんなに大オーケストラの曲であろうと、すべてのパートをひとつずつ歌ってみることで音楽を組み立てているようなところがある。だからどのような旋律であれ、どのようなリズムパターンであれ、横の流れに乱れがない。クラウスの音は、マスとしてのオーケストラを幾何学的に統率したものではないと言ってもいい。少し年上のライナーやクライバーと比べると、オーケストラの音の出し入れの折り目正しい整理という意味では劣る部分があり、そのせいでクラウスの音はやや旧世代的な、鄙びたところがあるのだけれど、一回り年上のフルトヴェングラーなどと比べれば、ずっとモダンなたたずまいになっている。内へ内へと潜るように没入してすべてをひとつに融解させるのでも、上から外から全体を俯瞰的に掌握するのでもなく、個々のフレーズをソロのように解き放ちながらそのひとつひとつをあたかもひとりの奏者が奏しているかのようにシンクロさせていく。複雑な大オーケストラの曲が、奇妙なことに、わりと数の多くないソリストたちによるわかりやすいアンサンブルになる。
それを繊細さと讃えるか、スケールに欠けると貶すかは、聞き手の趣味の問題だろう。しかし、オペラという劇場音楽のスペシャリストにしては、クラウスの音楽はあまりドラマティックとは言えない部分があることも否定できないし、巨視的なレベルでのクライマックスを築くよりも、微視的なレベルでの細部のニュアンスに拘泥しすぎているきらいもある。音楽の盛り上がりは楽譜や台本それ自体の盛り上がりに委ねられているようなところがあるし、ことさらに美しい音を目指してもいない。クラウスが求めるのは、まずなにより楽譜的な正確さであり、音色はあくまで手段なのだろう。それは、もしかすると、リヒャルト・シュトラウスの求めるところと重なるのかもしれない。
そう考えてみると、ヴィオリカ・ウルスレアクがなぜシュトラウスの信頼する歌手であったのかが理解できる。現存するウルスレアクの録音を聞くかぎり、彼女の声はどちらかというとくぐもった陰気な響きで、歯切れが悪い。音程の取り方がすこし低めで、細かなビブラートを多用するせいか、つねに泣きの表現になってしまっているように聞こえる。
しかし、美声をひけらかすテノールを嫌い、主要なタイトルロールにバリトンを配置することが多かったシュトラウスの声楽趣味を思うと、アルトのような声質で、決して歌い崩すことがなく、理知的で、きわめて正確なリズムで音節を旋律に乗せていけるばかりか、言葉の意味をつねに音楽のニュアンスに翻訳していくことができるウルスレアクは、たしかに作曲家にとって理想的な表現者だったのだろう。戦中のザルツブルク音楽祭で上演されたドイツ語版の『フィガロの結婚』を聞くと、ドイツ語の音節や響きが余ったり浮いたりすることなく、イタリア語の台本のために書かれたモーツァルトの音楽にまったく違和感なくはまっていることに気がつくが、それはまちがいなく指揮者の手腕のおかげだ。シュトラウスにとっても、クラウスにとっても、声は、純粋器楽的なものではないし、ナルシスティックな陶酔から一線を画するものだったのではないか。
言葉の抑揚を基盤とするクラウスの音楽は器楽的な正確さとはべつの正確さを持っているし、軸とする音域も独特だ。Deccaとの録音は、高音と低音が強調されている(というか、中音域が抜け落ちている)せいで、全体的に痩せこけた音がするけれども、クリアな低音とつややかな高音を埋める人声に近い中音域こそが、クラウスの指揮の基調を成していたように思うし、言葉の表現媒体としての声を素材とするクラウスの音には、わたしたちの声が必然的にそうであるように、雑多で雑味がある。響きは澄んでいるが、透き通っているわけではない。リズムは的確だが、メトロノーム的な意味で完全に同期しているとは言いがたい。濁ってはいないが、わずかに不透明な響き。ズレてはいないが、点ではなく面としてのアンサンブル。Deccaとのリヒャルト・シュトラウスの録音にしても、オーケストラがトゥッティで大音量で鳴り響くところではなく、ソロが絡み合うところ――「英雄の生涯」のバイオリンソロ、チェロとビオラのソロが前面に出る「ドン・キホーテ」、「家庭交響曲」の緩徐楽章――が演奏として傑出している。
準備段階において個を完全に従属させることで、本番では、あたかも個が自ら望んでそうするかのように指揮者の理想を体現させるのだが、そこには、奏者自身の自発性の余地がどういうわけか大きく残っている。ソリストたちの饗宴のような音、すべての音を統率する中心的存在はまちがいなく存在するが、にもかかわらず、その存在は遍在的で、どこにでもいるようで、どこにもいない。
クラウスの音楽はきわめて人為的なものだった。言葉が自然に音楽に寄り添う音楽、それは実はきわめて不自然な代物だ。言葉を音楽化し、音楽を言語化する。言葉にとっても音楽にとっても互いに不自然なことを、あたかも自然であるかのように偽装する。そのためにこそ、クラウスは徹底的なリハーサルによってアンサンブルを鍛え上げたはずだ。そしてこの自然化された不自然さにこそ、クラウスの指揮のモダニズムがあると言ってよいだろう。これらの要素のひとつひとつは、クラウスの教え子たち――カラヤン、スイトナー、ヴァルヴィーゾ――にたしかに引き継がれてはいるが、その微妙なバランスをそのままに継承することは、誰にもできなかったようだ。
しかし、作曲家の意図なるものを具現化するために、このようなモダニズムが要請されたわけではないような気がする。シュトラウスと同じように最小限の身振りできわめて抑制された振り方をするクラウスの解釈は主知的なもので、主観的なものではない。もちろん、そこに表出する粋なセンスや華やぎは、クラウスという音楽家を育てたウィーンの伝統に端を発するものであると同時に、クラウス個人のものでもあっただろう。けれども、クラウスの音楽の核心にあり、また彼の音楽を統合しているのは、なにかきわめて非主観的な、さりとて主観性なき客観性でもない、構築的な劇場感覚であったようにも思う。それがクラウスの音楽を、20世紀前半の遺物にすると同時に、時代性を超越した演奏の記録にしている。