うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

朗読と手話による第9:シルヴァン・カンブルランとハンブルク響による創造的解釈

「3楽章と1場 In drei Sätzen und einer Aktion」と題されたハンブルク響とシルヴァン・カンブルランによるベートーヴェンの第九の映像は、基本的にベートーヴェンの音楽そのままでありながら、感触としては現代音楽的な古典の再解釈に近い仕上がりになっている。

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ソーシャル・ディスタンシングのために間引きされたオケは、室内楽に近い規模で、カンブルランの明晰な指揮と相まって、第九に仕込まれたくどいほどの対位法的構造がしつこいまでに浮き彫りになる。

4楽章の合唱部分はパイプオルガンが、独唱部分は語りと手話が担当している。シラーの詩にない言葉は、ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」からの引用だこうして、「歓喜の歌」の躁的なところが、鬱的なものによって中和される。いや、それどころか、Katharina Schumacherのアイロニックでアンニュイなセリフ回しのせいで、第9の陶酔的なハイテンションが、素面の観想に引き戻される。

ここではCovid-19の強いる物理的な要請が、形式と内容の両面において芸術的に取り入れられている。自らの聴覚の衰えに絶望する「ハイリゲンシュタットの遺書」は、医療と孤独と死と遺産と幸福の問題を前景化する。手話は、聴覚障害に悩まされていたベートーヴェンとリアルに重なり合う。そして語りと手話は、第9がシラーの詩のどの語句を強調しているのをこのうえなく明らかにする。

アドルノ(だったと思う)が指摘したように、天上の創造主は存在する「はず muß」のものであって、すでにかならず存在しているものではないわけだが、その仮想的な存在論的在り方をこのパフォーマンスは執拗に強調していく。

悲壮的であると同時に皮相的でもあり、にもかかわらず、どこかコミカルで希望をただよわせてもいる。「兄弟たちよ Brüder」という排他的でもある男性的な呼びかけが、「姉妹たちよ Schwester」によって複数化される。

音楽はひたすらに陽に進んでいくし、手話を受け持つ3人の若者は、微妙な憂いを浮かべつつも、音楽に反応して身体を動かしてく。しかし語りだけは、つねに、疑いを隠さず、どこかニヒルのままだ。

とはいえ、彼女が強迫観念的に繰り返す詩句は、作曲者が反復する詩句にほかならない。第9の歓びの執拗さは、不安の裏返しに過ぎないのではないか。そんな疑いが浮かんでくる。陶酔的な歓びは、仮想的な夢想にすぎないのかもしれない。

しかし、欧州評議会がヨーロッパの統合の象徴として採択したこの曲を、どうしても信じたいという意志が、ここにはある。疑問はある。不信はある。「ヴェニスに死す」のアッシェンバッハのように、イゾルデのように、陶酔のなかで歓びに死に絶えるような身振りが幾度となく繰り返される。

にもかかわらず、ここで歌い上げられている全人類の同胞性にたいするコミットメントは失われていない。友への声なき呼びかけがある。そして歓びへの呼びかけが。

まことの悦び……おお、神よ、いつの日に――おお、いつの日に、――私は自然と人々との寺院の中で、その反響を再び見いだすことができるのですか!――もはや決して?――否――おお、それはあまりにも残酷です!――der wahren Freude - o wann - o Wann o Gottheit - kann ich im Tempel der Natur und der menschen ihn wider fühlen - Nie? - nein - o es wäre zu hart *1

オーケストラがいなくなった空白のステージを、手話を担当した3人の若者が、楽譜を覗きこんだり、上を見上げたりしながら、いぶかしげにさまよいながら去っていく最後のシーンは、不安をかきたてる。誰もいなくなった無音の舞台は、廃墟のようなニュアンスもある。しかし、おそらく、わたしたちはこの戦慄すべき可能性を噛みしめる必要がある。

そのような滅亡の未来の可能性をありありと思い浮かべることによってのみ、わたしたちはいまいちど、絶望のなかで希望を取り戻すことができるのだろう。

 

Von Katharina Schumacher im 4. Satz gesprochene Texte


„O ihr Menschen die ihr mich für Feindseelig störisch oder Misantropisch haltet
oder erkläret, wie unrecht thut ihr mir […]

おお、お前たち、――私を厭わしい頑迷な、または厭人的な人間だと思い込んで他人にもそんなふうにいいふらす人々よ、お前たちが私に対するそのやり方は何と不正当なことか!


bedenket nur daß seit 6 Jahren ein heilloser Zustand mich befallen, durch
unvernünftige Ärzte verschlimmert […]

しかし考えてもみよ、六年以来、私の状況がどれほど惨めなものかを!――無能な医者たちのため容態を悪化させられながら……


o wie hart wurde ich dur[ch] die verdoppelte traurige Erfahrung meines schlechten
Gehör's dann zurückgestoßen, und doch war's mir noch nicht möglich den
Menschen zu sagen:
sprecht lauter, schreyt, denn ich bin Taub!“

私は自分の耳が聴こえないことの悲しさを二倍にも感じさせられて、何と苛酷に押し戻されねばならなかったことか! しかも人々に向かって――「もっと大きい声で話して下さい。叫んでみて下さい。私はつんぼですから!」ということは私にはどうしてもできなかったのだ。


„O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere anstimmen.
Und freuden-…, und freudenvollere“
„Freude! Freude! Freude!
Freude, schöner Götterfunken
Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken,
Himmlische, dein Heiligtum!
Deine Zauber binden wieder
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Brüder,
Wo dein sanfter Flügel weilt.“


„[…] ach wie wär es möglich daß ich die Schwäche eines Sinnes angeben sollte, der
bey mir in einem Vollkommenern Grade als bey andern seyn sollte, einen Sinn
denn ich einst in der grösten Vollkommenheit besaß, in einer Vollkommenheit, wie
ihn wenige von meinem Fache gewiß haben noch gehabt haben […]“

ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へ曝さらけ出しに行くことがどうして私にできようか!


„Gottheit du siehst herab auf mein inneres, du kennst es, du weist, daß
menschenliebe und Neigung zum Wohlthun drin Hausen, o Menschen, wenn ihr
einst dieses leset, so denkt, daß ihr mir unrecht gethan, und der unglückliche, er
tröste sich, einen seines gleichen zu finden, der troz allen Hindernissen der Natur,
doch noch alles gethan, was in seinem Vermögen stand, um in die Reihe würdiger
Künstler und Menschen aufgenommen zu werden“

神(Gottheit)よ、おんみは私の心の奥を照覧されて、それを識っていられる。この心の中には人々への愛と善行への好みとが在ることをおんみこそ識っていられる。おお、人々よ、お前たちがやがてこれを読むときに、思え、いかばかり私に対するお前たちの行ないが不正当であったかを。そして不幸な人間は、自分と同じ一人の不幸な者が自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家と人間との列に伍せしめられるがために、全力を尽したことを知って、そこに慰めを見いだすがよい!

 

„Freude trinken alle Wesen
An den Brüsten der Natur;
Alle Guten, alle Bösen
Folgen ihrer Rosenspur.
Küsse gab sie uns und Reben,
Einen Freund, geprüft im Tod;
Wollust ward dem Wurm gegeben,
Und der Cherub steht vor Gott.“


„Froh, wie seine Sonnen, seine Sonnen fliegen,
froh, wie seine Sonnen fliegen
Durch des Himmels prächt'gen Plan,
Laufet, Brüder, eure Bahn,
Freudig, wie ein Held zum Siegen.
Freudig! Freudig! Freudig!
Laufet Brüder eure Bahn
Freudig wie ein Held zum siegen!“

 

„Freude, schöner Götterfunken
Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken,
Himmlische, dein Heiligtum!“

 

„Seid umschlungen, Millionen!
Diesen Kuß der ganzen Welt!
Brüder, über'm Sternenzelt
Muß ein lieber Vater wohnen.
Muß! Muß! Muß!
Ihr stürzt nieder, Millionen?
über Sternen muß er wohnen.“
„Freude, schöner Götterfunken
Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken,
Himmlische, dein Heiligtum!“

 

„Seien die Worte in der Welt
Auch wenn die Welt schweigt!
Seien die Töne in den Ohren
Auch wenn die Töne schweigen!
Seien Worte und Töne in der Menschen Herzen
Auch wenn die Menschen schweigen!“

 

„Brüder!“ – „überm Sternenzelt muß ein lieber Vater wohnen.“

 

„Tochter aus Elysium,
Freude, Tochter aus Elysium.“

 

„Tochter aus Elysium,
Freude, Tochter aus Elysium.“

 

„Alle Menschen werden Brüder,
wo dein sanfter Flügel weilt.“


„[…] o Vorsehung - laß einmal einen reinen Tag der Freude mir erscheinen – so
lange schon ist der wahren Freude inniger widerhall mir fremd“

おお、神の摂理よ――歓喜の澄んだ一日を一度は私に見せて下さい

 

„der wahren Freude - o wann - o Wann o Gottheit - kann ich im Tempel der Natur
und der menschen ihn wider fühlen - Nie? - nein - o es wäre zu hart“

まことの悦び……おお、神よ、いつの日に――おお、いつの日に、――私は自然と人々との寺院の中で、その反響を再び見いだすことができるのですか!――もはや決して?――否――おお、それはあまりにも残酷です!――

 

www.symphonikerhamburg.de

*1:朗読されるテクストはPDFで配布されている。「ハイリゲンシュタットの遺書」の日本語訳は青空文庫にある。ドイツ語の原本とその転記はWikisourceにある。英訳Wikisourceにある。