ゲオルク・ショルティの方法論化されたモダニズムは、その方法論性にもかかわらず、一回的なものだったのかもしれない。ショルティのあまりに健康的な音楽は、不思議なことに、歴史の袋小路でもある。
日本のクラシック音楽批評でショルティの録音が手放しで称賛されることはほとんどない。録音史上に燦然と輝くワーグナーの『指環』録音にしても、カルショーの録音プロジェクトであるとか、ウィーンフィルの記録として扱われることがあまりにも多いし、そこには「(クナッパーツブッシュ指揮であったら)」というような恨み節が見え隠れしている。
ショルティの指揮の呼吸が浅く、息苦しいところがあることは、否定できない。しかし、それと同時に、ショルティほど音楽の生理的な快感や、瞬間的なインパクトのストレートな快楽を感じさせてくれる音楽家もいない。
ハンガリー出身のショルティは、バルトークやコダーイの下で学んでおり、トスカニーニに目をかけられてザルツブルク音楽祭で助手を務めてもいるし、エーリッヒ・クライバーの推薦も受けて戦後のキャリアを築いている。その意味で、ショルティもまた、20世紀前半のモダニズムの申し子ではあるはずだが、そのようには見なされていないように思う。
ショルティの指揮は、さまざまな伝統(ハンガリーの音楽教育、西ヨーロッパのモダニズム、アメリカの合理主義)の結節点でありながら、そのどれにも還元不可能だ。
なるほど、ショルティのキャリアはDeccaの鮮烈な録音技術と不可分であるし、シカゴ響の金管楽器のヴィルトゥオーゾと切り離せない。ショルティの驚くほど明晰な水墨画的な濃淡の音離れのよさは、ハンガリーの指揮者――フリッチャイ、ドラティ、ドホナーニーーに連なるものである。
ショルティの音楽はたしかにやかましい。音が鳴りすぎている。気持ちよいのは間違いないが、デリカシーに欠ける部分もある。
けれども、抒情的なところがないわけではない。歌うところはたっぷりと歌わせている。
このメリハリがあまりにも見事で、システマティックなので、ショルティの指揮は、反復不可能な芸術家の作品というよりも、方法論的に安定した反復可能な職人の手技という印象を醸し出す。
事実、ショルティのリハーサルは、怖ろしく細かい。三連符的なパッセージを「タタタ、タタタ」と弾かせるというのは、アマオケにこそふさわしい練習であって、プロにすれば屈辱的な指示ではないかという気がするのだけれど、その手の基礎の基礎を再確認させるようなトレーニングを臆することなく実践していく。
その反面、フレーズの歌い回しや音色については、きわめて紳士的な物腰で奏者に強要することがない。自分の望むところを頑として譲ることはないが、決して一方的に押しつけることはない。そのあたりが、我が道を何としても押し通すトスカニーニやクライバーと違う。
ショルティの音楽は、楽譜の音を「単なる」音として表象するモダニズム的な潮流に与するものである。ショルティにとって、『エロイカ』のアレグロ・コン・ブリオは、トスカニーニが述べたように、アレグロ・コン・ブリオでしかないだろう。
しかし、ショルティが彼の先駆者同様、オペラ指揮者であった点も見逃すことはできない。過剰な解釈、誇張的な解釈を遠ざけているからといって、音楽の「意味」を拒否しているわけではない。『タンホイザー』序曲のリハーサルを見るかぎり、彼が、ライトモチーフの物語的な機能を完璧に意識していることは間違いない。純器楽的でありながら、フレージングは描写的なものでもあり、そのあたりの記述性は、リヒャルト・シュトラウスの系譜に連なるものでもある。
ショルティの音楽はあまりにも陽の気に充ちている。方法論がポジティヴなものに転化しすぎているとも言える。健康的すぎる。あまりにも押し出しがよくて、正しすぎて、聞くほどに体力を消耗させられる。デモーニッシュなところがない(そのようなデモーニッシュな予期せぬ脱線的な成就こそ、トスカニーニやエーリッヒ・クライバーの指揮を特別なものにしているものでもある)。
それは聞き手の問題であって、作り手の問題ではない。ショルティの指揮があまりにストレートで、あまりにあっけらかんで、あまりに陰翳がなく、対位法のエッジが効きすぎていると批判することは、ないものねだりにすぎる。
しかし、ショルティの音楽に裏がないことは、指摘しておかなければならないだろう。
スコアやリブレットに書かれていないものを拒否することは、ロマン主義が依然として残存する20世紀前半においてきわめて前衛的なやり方であったはずだが、それが方法論に転化していった20世紀中期から後期にかけては、むしろ時代の遺物と化していったのではないか。そのような潮流や流行の変化のなか、カラヤンもバーンスタインも――ショルティ1912年生まれ、カラヤン1908年生まれ、バーンスタイン1918年生まれ――超主観的な方向に舵を切っていくが、ショルティは依然としてモダニズム的な反解釈に忠実であり、その態度を、カラヤンやバーンスタイン亡き1990年中ごろまで貫きとおしたのだった。
ショルティほど細部の動機をクリアに運動させている指揮はない。さまざまな録音を経たあとでショルティの録音を聞き直してみると、ショルティがほとんど偏執的なまでに細かなパッセージを自然に不自然に際立たせようとしていることに気がつく。一聴しただけだと気づかないぐらいにさりげないが、他の録音と比べると、それがいかに特異であるかがすぐにわかる。
ショルティの鋭角的な指揮――指揮というよりは、幾何学的、器械体操的と言いたくなるほどの身体運動は、おそらく、この曖昧さのない透きとおったインパクトのための必然的な所作だったのだろう。ショルティの音楽は音量に支えられている部分もあるけれども、それは質的な迫力であって、量的なものではない。インパクトの鋭さ、クライマックスへ向けての盛り上がりであり、頂点での抜けのよさであって、客観的な音量はむしろ二次的である。
ショルティの音には、つねに、切り裂くような鋭さがある。そしてそれこそ、量的なものではなく質的なものであり、奏者の呼吸によってのみ可能になる代物である。
ショルティの音楽を受け入れられない者は、おそらく、奏者の呼吸を理解できない者である。ショルティの指揮を受け入れられない者は、おそらく、圧倒的な指導者による有無をいわせぬドライブに身を任せられない者である。
ショルティの音楽を愛せるかどうか、それはおそらく、聞き手の自律性の問題である。圧倒的な力を持つ指導者になすがままに指揮される歓びに身を任せられるかどうかである。