うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

静けさと烈しさの協業的な同居:ミトロプーロスの魔術的な指揮

ディミトリ・ミトロプーロスがどのようにして音を合わせていたのか、どうしてもわからない。オーケストラの音の合わせ方など、そうそうヴァリエーションがあるものでもない。「点」で合わせるか(するとブーレーズのように、重なり絡み合う音が透けて聞こえてくる)、縦「線」で合わせるか(オペラ畑の指揮者に多いやり方で、たとえばクナッパーツブッシュのように、すっきりとした造形が浮かび上がってくる)、縦「幅」で合わせるか(フルトヴェングラーカラヤンのように、起点がズレると、音の厚みが生まれる)。それは、出てきた音を揃えるという結果主義に立つか、音を出す前の予備動作をシンクロさせる、つまり、演奏する側の呼吸で合わせることを重視し、出てくる音はピタりとは合わないとしても、音楽としては揃うような方向を目指すのか、という部分でもある。しかし、ミトロプーロスの音はそのどちらでもない。まるで3次元の空間で合わせているように聞こえる。

異次元の音だ。それはもしかすると、ミトロプーロスが持っていたという超人的な記憶力のなせる業だったのかもしれないし、たしか同じような映像記憶能力を持っているマゼールの指揮からも、どこかミトロプーロスの演奏に似た驚異的な空間定位が聞きとれることは事実ではあるけれども、無定形であるにもかかわらず凛とした峻厳さのあるミトロプーロスの音楽は、あまりに特異だ。

ここでは静けさと烈しさが同居しているばかりか、互いが相手をさらなる高みに引き上げていく。全体のフレームの構築と、そのなかで蠢くエネルギーの奔流が、拮抗しながら協業している。カオスがコントロールされ、しかし、カオスのまま昇華されている。

だからミトロプーロスの演奏は、構築的にしてダイナミックであり、正確でいて情熱的なのだ。どこか表現主義的なシェルヘンの指揮に似ているけれど――シェルヘンは急死したミトロプーロスが振るはずだった演奏会に代役として指揮台に立ち、マーラーの3番を演奏していたはずである――バッハの数的秩序を愛したシェルヘンの堅牢な枠組みのなかでの烈しさと比べると、ミトロプーロスの指揮は、すべてが流動的であると同時に構築的であるし、シェルヘンがいわば暴力的なまでの牽引力で無理やりオーケストラを追い立て駆り立ててのに比べると、ミトロプーロスの煽動はオーケストラの自発性の増幅であるという点で、大きく異なっている。

勝手に動き回る音のひとつひとつを、その自然な動きをすこしも殺すことなく、指揮者の望む方向に自由自在に誘い込んでいくような、そんな魔術的なところがある。

 

1896年はギリシャに生またミトロプーロスは、ヨーロッパに遊学したのち(ブゾーニが教師のひとりであった)、1920年前半はベルリン国立歌劇場エーリッヒ・クライバーの助手を務め――ミトロプーロスはあの伝説的な、クライバーによるベルクの『ヴォツェック』初演のメンバーのひとりだったはずだ――、その後ギリシャに職を得る。1930年代半ばからはアメリカのオーケストラのポストに就き、1950年代は、ニューヨーク・フィルばかりか、メトロポリタン歌劇場とも関係を深めていく。イタリアではオペラ指揮者として活躍してもいる。

しかし、録音には恵まれていない部分がある。1960年まで生きたにもかかわらず、ステレオ録音は少ない。ディスコグラフィもどこか場当たり的だ。どこかの時代、だれそれの作曲家を集中的に録音していない。さまざまな国から、さまざまなスタイルの作品を、ニッチを埋めるように取り上げているかのようだ。この拡散した網羅性が、ミトロプーロスの全体像を見えづらくしている部分は少なくない。一時期Orfeoから出ていたヨーロッパのオーケストラとのライブ録音にしても同様だ。

敬虔なギリシャ正教徒であり、同性愛者だった。20世紀音楽の擁護者だが、新ウィーン学派のような強面の前衛を支持する一方で、イギリスやアメリカやロシアといった別の地域の別の潮流もレパートリーに加えていた。バッハのオルガン曲をオーケストラ用に編曲してさえいる。

 

ミトロプーロスの本領は、複雑すぎるほどに絡み合ったテクスチャーの音楽を、クリアに、しかしエモーショナルに響かせるところにあったように思う。

ミトロプーロスマーラーの録音を聞くと、そのあたりがよくわかる。見通しがよく、全体像がすっとこちらに入ってくる。しかし、ワルターのように、過度にわかりやすくなってはいない。複雑なものは複雑なままに、難解なものは難解なままに、しかし、それを破格の情熱をこめて、信じられないほどの熱量の音楽に錬成してくる。

録音技術のせいが大きいのかもしれないが、ミトロプーロスの音楽に精妙な響きのうつろいを感じることはあまりない。繊細さはある。抒情性もある。しかし、色彩感は弱い。一本調子とは言わないけれど、どんな点も線もすべてひとつの筆で描くことができてしまうという異能の持ち主だからこそ、手数を増やす必要性をそもそも感じなかったのかもしれないという気がする。

しかし、こう言ってみてもいいかもしれない、すべてがあまりに烈しすぎる、と。ミトロプーロスの音楽に渦巻く生々しさは、きわめて純粋なエネルギーなのだ。特定の感情やムードの表現ではなく、音そのもののドラマであるかのように。ニューヨークフィルと録音したプロコフィエフの「ロミオとジュリエット組曲は、ミトロプーロスの特異な音楽の最良の部分を記録にとどめることに成功している。

 

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