うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

西欧を普遍化するために、またはお姫様と王様は金髪に白い服でなければならないのか:オリヴィエ・ピィ作、宮城聰演出『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』

20200202@静岡芸術劇場

神話を持たない民族は存在しない。ヴィーコは『新しい学』のなかでそんなことを書いていたと思う。自然発生的に生まれた共同体はかならず何かしらの物語を共同で作り上げ、世代を超えて引き継ぎ、修正や変更を加えながら語り続けてきた。グリム童話もそのような共有文化財だろう。しかし、グリム兄弟が19世紀初頭に採集し編纂した童話集の所有権がその出どころの地域や人々にあるとしても、そこで語られている内容や教訓には普遍的なところがある。悪人は罰せられ、正直者は報われる。親の言うことを聞かない子どもは魔女につかまり、知恵と勇気のある子どもは無事脱出する。狡賢い奴らの騙しの手口、真っ当な人たちの真っ当な行為。超自然的な要素もふんだんにある。魔法、悪魔、奇跡。 

オリヴィエ・ピィの『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』の物語は民話的な形式にのっとっている。匿名のキャラクターたち――父親、悪魔、少女、王様、庭師――が、どこともつかぬところ――森、庭、水車小屋――を、移動していく。貧しい父は悪魔の口車にのせられ、まばたきという生理的にはコントロールしかねるものを承諾のサインに指定され、そのつもりもないままに娘を差し出し、それと引き換えにお金持ちになる。3年後に娘を受け取りにきた悪魔は、娘に3たび拒まれる。娘を手に入れらないとわかった悪魔は、父をけしかけ、娘の手を切り落とさせる。そうして旅に出る少女は、守護天使のような存在に導かれ、王様にみそめられて結婚し、子どもを授かる。しかし、子が産まれる前に、王様は戦争に出かけていく。子が生まれたという庭師の報告は、伝令役の悪魔の悪意によって書き換えられる。王の返事もまた悪魔の悪意によって書き換えられる。子の命を心配する庭師が、少女を森に逃がす。7年後、戦争から返ってきた王様と対面した庭師は、王様が、依然として彼がお教えした花を愛するお人であることを知り、少女の居場所を告げる。贖罪を求めてさまよっていた父、妻と息子を探しにきた王は、少女によって赦されるだろう。なぜなら、奇跡は起こるのだから。切り落とされた少女の手はすでに再生していたのだから。春の訪れとともに新たな芽を出す自然のように、彼女の手も新たに生えてきたのだから。奇跡が起こる可能性にわたしたちが閉ざされませんように、奇跡にたいする畏れと驚きと歓びにわたしたちが開かれていますように。そんな祈願の言葉がエピローグとなり、折り紙を山折り谷折りして作ったかのような台形の白い舞台と、その両脇にある折り紙仕立ての木々が、原色の光に包まれ、芝居が終わる。

父親を恨むこともなければ、王様を憎むこともない、すべてをありのままに受け入れて受け止めることのできる純真な自然児である少女が、悪意というよりは軽率さによって罪を犯した父と、彼自身のものではない罪の咎を負わされた王とを、救ってしまう。しかし、それは父が罪を償った結果というわけではないし(たしかに父はまさにそれを求めて放浪していたのではあるけれど)、王が善をなしたからでもない(王は戦争に行っていたのであり、暴力と無縁ではない戦争は、たとえ彼の王国にとって良いことであるにせよ、絶対的な善ではありえないだろう)。善行が報われるわけではない。それどころか、悪意が罰せられるわけでもない。無数の名前を持つ黒い悪魔は、わたしたちの影のような存在であるらしいから、おそらく消えてなくなることはないのだろう。彼はただ舞台から退いていくだけである。アコーディオン弾きの守護天使にしても、本当に神の使いなのかは、定かではない。この世界には超越的な神など存在しないかのようである。奇跡の力は自然にある。季節のめぐりとともに命を生み出し、育んでいく自然こそが奇跡なのだ。自然は奇跡であり、だからこそ、奇跡は自然である。

ここには不思議なひねりがある。民話が物語による教育であるとすれば、オリヴィエ・ピィの戯曲が伝えようとしている教訓は何だろうか。狂言回し的な役割を担う天使は、エピローグの前に、王様が最後に述べる言葉に注意を払ってくださいとメタ的なコメントをする。王様の最後の言葉とは、奇跡にたいする驚きについてのものだ。信じられようなことは起こりうるし、実際に起こる、それに驚くことができるようであろう、と。だから具体的な教訓と言えるようなものは、ここにはないのかもしれない。そのかわりにわたしたちのために讃えられるのは、世界にたいする開かれた態度であり、陰鬱な現実に立ち向かう無垢な想像力のしなやかなつよさである。しかし、自然的奇跡にたいする楽観的なまでの信頼は、21世紀の5分の1が過ぎ去ろうという現在、反動的に響く危険はないだろうか。そして宮城聰による演出は、そのような問題性を意図せずして増幅させていたのではないだろうか。

舞台はミニマリズム的に切り詰められている。もともと具体的な参照項をもたない戯曲を、宮城はさらに抽象化する。舞台中央にしつらえられた場にしても、その両脇に置かれた木々や動物たちにしても、折り紙的な姿かたちをしている。具象的ではない。動物には顔がなく、木々には葉がない。輪郭はあるが、細部はない。さまざまな角度の斜線があちこちに走っているから、直線的で鋭角的な印象を与えることはないけれど、白一色という色づかいと相まって、独特の空虚さがある。

そのように作り上げられたのっぺらぼうな人工性のなか、俳優たちは、漫画の一コマのような、絵本の一ページのような演技を断続的に繰り返していく。白い背景は影絵のためのスクリーンになる。前景の肉体と後景の影絵が、ひとつの身体からふたつの像を作り出し、平面的な舞台に奥行きを生み出す。しかし、それらは決して滑らかには繋がれないだろう。コマとコマのあいだ、ページとページのあいだの移行部分を担うのは、照明による暗転である。舞台が暗闇に包まれて再び明るく照らされるたびに、紙芝居の挿絵が入れ替わるように、身体のポーズが変化し、場面が転換していく。ストップモーションの非連続的な連続は、絵本を舞台化するというよりも、舞台を絵本化する。動きではなく、動きの不在が表象される。けれども、それを、生身の身体という動くことを本質とする媒体に担わせることで、舞台には独特の生硬さが出現する。不自然さといってもいい空気感である。

動く身体をあたかも動かない像であるかのように表象するという矛盾――ムーバーとスピーカーというふたりによる分業体制を、たったひとりでこなさなければいけないという難題と言い換えることもできるだろう――がどこまで演劇的に止揚されていたかということになると、俳優たちのあいだでかなりのバラつきがあったし、役柄の性質に影響されている部分も大きかった。運動と不動の弁証法を独自の表現にまで高めきることができていたのは、おそらく、王様役の永井健二だけだろう。彼だけが、静止のもつ鋭角性と、運動のもつ流動性と、断片的なセリフという相互に異質な要素を、どれかひとつに引き寄せることなく、異質なままに彼の身体と言葉のなかに共存させ、協働させていた。悪魔役の武石守正は、早口言葉的に饒舌なセリフに体を寄り添わせるように、コミカルな所作のキレを強調していたと言っていいだろう。静止するポーズにいたるまでのスピードと、狙ったポーズになるように体にブレーキをかけるという停止のモメントに重きを置いていた。

もし父親役の大内米治と庭師役の大道無門優也の身体が、セリフの内容の抒情性に引きずられるように、ある種の柔らかさをただよわせてしまっていたとしたら、少女役の鈴木真理子は、あまりにも見事に身体を統御しきった結果、演劇的というよりはアスリート的で器械体操的な肉体美を見せつける結果になってしまっていたと言ってよいかもしれない。それどころか、彼女が表現のためのマテリアルとして自らの肉体を巧みに使いこなせば使いこなすほど、ただでさえ象徴的でエーテル的なセリフがますます身体から乖離していくことになってしまっていた部分があった。たしかにこの少女には、自らの発する言葉の意味を自分でも完全に理解できていないかのようなところがあるし、彼女の声や体をつうじて何か別の大きな意志が語っているかのようなところがあるのだから、鈴木真理子がやってみせたように、肉体から言葉を浮遊させるという方向性もありえないではないし、宮城の演出はそのような方向性を許容するどころか推奨するものではあったけれども、彼女の作り出したお人形的な人工性は、E・T・A・ホフマンの怪奇譚にこそふさわしいものであり、グリム童話の主題にもとづく変奏曲ともいうべきピィの作品が求める、人間的不自然さの彼方にある奇跡的自然性のための表現としては、現世的すぎたきらいがある。

単純な要素から複雑なものを作り出す。それは宮城の演出の根本原理だと思うのだが、そのミニマリズムによるカオスの創出は、音楽面においても貫かれていたと言っていい。しかし、近年の作品におけるポリリズム的で複層的な音楽づくりに比べると、ここでの棚川寛子の音楽は、はるかにシンプルであるし、わかりやすく描写的ですらある。コントラバスの弦は叫びや呻きの記号のようであるし、どれほど音が多くなろうと、4拍子のリズムが基調にあるせいか、音の流れが読みやすいし、全体のフレームワークは反復的である。抑制された舞台の色づかいや、絵本的な俳優の所作とうまくマッチしていたと言うこともできるが、その一方で、反復的なところがミニマル音楽のような陶酔や法悦にまで昇華されるということはなく、そこに音による描写というリアリズム性が混入するせいか、音楽と舞台がある種の従属関係に陥ってしまっていたようにも思う。裏を返せば、舞台のうえでの出来事に寄り添いながらも相対的に自律しているという離れ業をやってのけている最近の棚川の音楽が、驚くべき高みに到っているということでもあるのだけれど。

少女と王様が金髪で白い服でなければならない必然性はあるのだろうか。この舞台でもっとも問題含みなのは、少女と王様の色の象徴性だ。ピィはグリム童話から教訓性のようなものを剥奪し、世俗的な現代世界においてはもはや信じることすら愚かしいと思われてもしかたのない奇跡という超越性をどうにかして舞台の上に出現させようとしているように思う。それはグリム童話という歴史的にも地域的にも特殊ではあるけれど、民衆的であるがゆえにある程度までは普遍的でもあるような素材から、普遍的なところを抜き出して、それを軸にして物語を再構成するような芸当だろう。そして宮城の演出は、折り紙的な装置と絵本的な所作によって、ピィの物語をいっそう抽象化することに成功したがゆえに、その核心に据えられた「奇跡にたいする驚き」という抽象的な普遍性を、おそらくピィ以上に強調することができていたのだとは思う。

 

金髪に白い服。この舞台で、光と闇は、道徳的な対立といった意味論的なレベルだけではなく、視覚的なレベルでも活用されていた。しかし、光と闇のペアと、白と黒のペアは、交換可能ではないだろう。ブロンドの髪にホワイトの服という形象は、もはやディズニーすら回避するどうしようもなく西欧的なステレオタイプであるし、そこには人種差別的な世界の遠因となりかねない色の序列性がある。白は光であり、それゆえ、闇である黒より尊い、というふうに。ステレオタイプを使ったことが、無条件でとがめられるべきだと言いたいわけではない。もし宮城のめざしていたのが、奇跡にたいする驚きという無垢な態度を取り戻すことにあったのだとしたら――世俗的な現代世界においていまだない何か、もしかすると決してありえないのかもしれないような何かの到来にたいしてわたしたちの心をいまいちどひらくことにあったのだとしたら、そのようなささやかな、しかしとてもむずかしい目的のためには、お姫様や王様についての西欧的ステレオタイプを真に普遍化するという作業が必要だったようにも思う。少なくとも、金髪というあまりにも白人的な理想のディテールについては、考える余地があったのではないかという気がする。