うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

クィアに約束されたユートピア:オリヴィエ・ピィの『愛が勝つおはなし』

20200504@くものうえ世界演劇祭

ほんの1時間ほどのオリヴィエ・ピィの『愛が勝つおはなし』は、ピイが長年取り組んでいるグリム童話シリーズのひとつ、その下敷きとなるのは象徴主義劇作家メーテルリンクがその処女作に選んだのと同じ「マレーヌ姫」で、波乱万丈で暗い部分もあるけれど、歌あり踊りあり、ハッピーエンドを約束された子どもにも安心の娯楽作品のように見えるのだけれど、その実、じつにクィアで、じつにインターテクスチュアルで、すこしだけメタフィクション的で、「最後は愛が勝つ」という呆れるほどクリシェなメッセージにもかかわらず、とても深いおはなしになっている。それはピイの芝居が、男女の愛の讃歌には終わっていないからだ。その愛はジェンダーを越え、苦難の時代を越えるだろう。悲しみや不幸、悪い時代や恐怖に打ち勝つだろう。人間的なスケールを越えて、かならずめぐりめぐってくる奇跡のような必然のような自然の再生を高らかに歌い上げるだろう。

オペレッタのように軽い芝居。旅芸人が見世物小屋でやるような場末感。俳優は4人だけ。舞台装置も小道具も最小限でチープ。韻を踏む定型詩的なセリフに、旋律のある歌。役者は同時に楽器奏者でもある。小さな舞台のまえに置かれたYAMAHAアップライトピアノがこの演劇世界の中心になる。役者たちが入れ違いでピアノを奏で、チェロを弾き、アコーディオンを鳴らし、太鼓を叩く。メイクはまるで仮面のような雰囲気。白く塗った顔に、歌舞伎の縁取りのような化粧。王子は王冠をかぶり、悪役の将軍は黒い軍服。ヒロインの娘は白いワンピース。庭師はサロペット。いかにもそれらしい格好。単純すぎるほどのプロット。愛を誓ったカップルが引き裂かれる。悪役の暗躍。お助け役のサポート。悪事が暴露されて罰される悪役。最後に報われるカップル。

舞台は忙しく変転していく。戦争が始まろうとしている。戦争に尻込みするフランス王子、しかし戦場に行くからには名誉にかけて立派に戦って死にたいと思う王子。王子を手玉に取ろうとする将軍、王子を傀儡にして自ら国の実権を握らんとする悪と虚無の権化。武器商人の父に命じられてイギリス王との政略結婚を強いられるが、王子とのあいだの恋ゆえに、屋敷の塔に7年幽閉されることになるけなげな娘。兵士として徴兵される庭師の男は、醜い皿洗いの娘と愛を誓う。

将軍の策略にまんまと引っかかった王子は、後ろから殴りつけられ、意識昏倒のうちにフランス軍は壊滅する。父王も面目もなくした王子は、仮面をかぶり、偽りの生を生きざるをえない。幽閉されっぱなしだった娘はどうにか生き残って退役した庭師によって救出され、旅芸人として旅に出る。イギリス支配のフランスのなか、民を落ち着かせるために、王子がもっとも醜い娘と結婚する運びになったのは将軍の仕込みだが、それを裏切るように、花嫁になるより海賊になって冒険に出たい皿洗いの娘にかわって、王子が本当に愛する娘がその顔をベールに隠しまま婚礼にのぞむことになる。戦場での真相を知る庭師は将軍の策略を暴き、海賊になるために出奔する皿洗いの娘をいつまでも待つことを誓うだろう。戦争で荒れ野となり、花も枯れた庭に、蜜蜂が可能性の花粉を運んでくる。循環する自然が幸福の匂いを連れてくる。愛が、世界も自然をも、救う。

様々なテクストの残響が聞こえてくる。それがピィの意図したものかはわからないけれども、洗剤の泡のなかに海賊を夢みる醜い皿洗いの娘の憧れの気持ちは、ブレヒトの『三文オペラ』の海賊ジェニーの歌――神学的マルクス主義エルンスト・ブロッホはこの歌の黙示論的ユートピア性を讃えていた――を思わせるし、最終的に庭仕事を讃える態度はヴォルテールの『カンディード』の最後――「わたしたちの庭を耕さなければ il faut cultiver notre jardin」――を思い出させる。王冠を川に投げ捨てるという細部は、メーテルリンクの『ペレアスとメリザンド』――ドビュッシーの『パルジファル』、またはポスト・ワーグナー的な語るオペラ――のなかの指輪のエピソードが思い浮かぶ。将軍の虚無主義的な悪意は、シェイクスピアの『オセロー』のイアーゴの反響ではないだろうか。

しかし、そのなかでもっとも縁の深い反響は、モーツァルトの歌芝居(ジングシュピール Singspiel)『魔笛』だろう。ピィは4人の俳優で6つの役をまかなわせる。『魔笛』では、名前からするとカップルに聞こえる王女パミーナと鳥刺し師パパゲーノが結ばれることはなく、パミーナは王子タミーノと結ばれ、パパゲーノはパパゲーナと結ばれる。『愛が勝つおはなし』では、王子と商人の娘が結ばれ、庭師と皿洗いの娘が結ばれる。商人の娘はパミーナであり、庭師はパパゲーノだろう。興味深いのは、ピィの芝居では、王子と皿洗いの娘を同じ俳優が演じている点である。こうして、『魔笛』では微妙に座りの悪い三角関係に見えたもの――タミーノ=パミーナ=パパゲーノ――が、きれいに解決してしまう。しかしそれは、ジェンダー的な安定性が突き崩されるからでもある。商人の娘と王子=皿洗いの娘と庭師。実のところ、皿洗いの「娘」が女であるかすらよくわからない。彼女にはヒゲがある。しかし庭師にすればそれは愛の障壁にはならない。こうして愛はジェンダーの壁をやすやすと乗り越えていく。

ピィの豊かすぎるほどにチープな芝居を見ていると、宮城の『少女と悪魔と風車小屋』のリッチな貧しさが見えてくる。宮城の演出はあまりにグランド・オペラすぎる。大仰すぎる。ピィの演出の「貧しさ」は決して状況に強いられたものではなく、意図的に選び取られたものであると思う。にもかかわらず、宮城演出はそこをあまりにリッチなものに変えてしまっていたし、ピィの芝居にあるジェンダー撹乱的なクィアなところを完全に異性愛化してしまっていた。お姫様は白いドレスで金髪でなければいけないのだろうか。宮城の演出はその問いにたいして「もちろん」と断言してしまっているように思うけれど、ピィは「なぜそうでなければいけないの?」と問い直している。

お伽話のフォーマットを借りているとはいえ、ピィの芝居はきわめて政治的な批判性を秘めてもいる。将軍が「王は必要だ、そうでもなければ、民衆は自由とか平等を夢見てしまうからな」と述べるとき、ピィの「おはなし」は突如として現代政治の風刺劇の様相を呈すだろう。もちろんピィはそのあたりを決してはっきりと述べることはないし、彼の芝居は、たとえメタフィクション的になろうと――たとえば最後のシーンで、「でもこの庭は絵だけどね」というセリフが口にされるとき、ピィの態度は手塚治虫の漫画によくある自己言及性を見せつけている――衒学的になりすぎることはない。しかし、「演劇という罪」が芝居のなかで言及されるとき、これがたんなる形式との戯れでないことも明らかになる。演劇という嘘のなかで、演劇という罪が糾弾されるとき、演劇という嘘の真実をめぐる問いが提起されている。

嘘だけれど、嘘ではない。嘘だけれど、いまここで物語のなかで起こっている。そして、その虚構のなかでの出来事は、わたしたちを揺さぶらずにはおかないだろう。虚構が現実になるか、現実が虚構で描かれたようになるかは、まったく定かではない。しかし虚構は現実のわたしたちに、ジェンダーを越えて結ばれる普遍的な愛の悦ばしい理想を与えてくれた。その理想はいまやわたしたちに委ねられている。その理想をわたしたちはどうするのだろうか。どうしたいのだろうか。

愛を讃える最後のコーラスは多幸感にあふれている。しかしここから、将軍が除外されていることにも、気づかずにはいられない。可能性の花粉が自然を復活させるように、世界もまた復活するだろう。しかしその再生した世界のなかで、悪意はどうなるのだろうか。お伽話はしばしば「めでたしめでたし」で終わる。ピィの「おはなし」もそうだ。しかし、その「めでたしめでたし」の後を生きていかなければならないわたしたちは、この多幸感から覚めなければならない。しかし、その多幸感をけっして忘れないようにしながら。可能性の花粉を蜜蜂のようにこの世界に運びこみながら。