20200505@くものうえ世界演劇祭
2時間ほどのキリル・セレブレンニコフの長編映画『The Student』(原題:Ученик)は何かについての作品なのだろうか。大澤真幸のプレトークによれば、「信じること」をめぐる映画であるという。母子家庭の高校生男子ヴェーニャが水泳の授業を欠席したことで帰宅した母親と言い合いになるシーンから始まる。思春期特有の男子の体についての悩みだと誤解する母は、宗教的感情のせいだという息子の言葉がたんなる出まかせであると思ってしまう。しかしヴェーニャは執拗に聖書からの引用を続け、彼の信じる聖書的な世界観や道徳観――異性愛的だが禁欲的である男性中心主義とでも言おうか――を自ら実践し、周囲に見せつけ、彼をとりまく大人たちを振り回していく。彼の仮想敵となるのは生物教師エレナだ。リベラルな道徳観の持ち主で、進歩的な女性。ダーウィンの進化論をヴェーニャに反論するというまさにそれだけの理由で、エレナもまた聖書を徹底的に読みこんでいく。ふたりの世界観の対決が映画のクライマックスを形成する。信じない方までもが信じる方に引きずられていくが、ヴェーニャがなぜ信じるのか、いったい彼が本当のところ何を信じているのかは、最後までよくわからないままだ。セレブレンニコフの映画は、けっして、怒れるナード的キャラの心理の闇に光を投じるようなことはしない。これは内面劇ではなく、状況劇である。
声をなくして神経質そうに手や顔を震わせるエレナから、海沿い道路に無造作に置かれた死体に無造作にかぶせられたビニールシートが風にさらわれそうになるところを押さえる警官2人とそのそばを走りすぎていくランニング中の男を俯瞰的にとったシーンに切り替わり、映画が終わるとき、なんとも不気味な居心地の悪さだけがわたしたちのなかに残る。ヴェーニャの信仰がもたらした壊滅的な事柄のほとんどが宙づりにされたまま終わってしまっているからだ。
セレブレンニコフの映画はドイツの現代戯曲家マリウス・フォン・マイエンブルクの戯曲Märtyrerを下敷きにしているという。ドイツ語で「殉教者」という意味だが、セレブレンニコフが選んだロシア語はその忠実な翻訳ではないらしい。Wikitionaryによれば、Ученикの意味は、1)男子学生、2)徒弟、学習者、3)使徒、弟子となっている。その意味では、英訳のThe Studentは、セレブレンニコフの意図に近いといってよいのだろう。
しかし誰がУченикなのか。ヴェーニャであることはまちがいない。しかし、いじめられっ子で、片足がすこし不自由で、どうやらゲイであるらしい、ヴェーニャに付き従うグレーシャもまたそうではないか。ロシア語のУченикは男性を指す名詞のようだが、英語のstudentから逆照射すれば、エレナもまた聖書の「学び手」であるといえなくもない。
「殉教」ということになれば、ヴェーニャに罰されるかのように殺害される友人の死は殉死かもしれない。ミスリーディングな証言をするヴェーニャのせいで冤罪的なかたちで解雇にさらされるエレナ、教室の床に釘で打ちつけた靴をはいて立ちつくし、「わたしは出て行かない、ここがわたしの場所だ」と絶望的に言葉をひねりだす彼女もまた、教師という職に殉じている。ヘビメタな聖歌をBGMに手作りの十字架を背負って街を歩き、バスに乗って学校に行き、教室の壁に打ちつけているところを見とがめられ、校長以下数人の教師と母親が列席するなか糾弾されるヴェーニャもまた殉教者的ではあるが、彼だけが、罰を受けることなくやりすごしている。
ヴェーニャが聖書から引き出す福音はきわめて独善的で偏向的だ。しかし、厄介なのは、それが謹厳で潔癖でもあり、頭ごなしには否定しかねるところである。彼の発信するメッセージはひどく混乱している。しかし、にもかかわらず、聖書の完全な誤読ではない。だからヴェーニャの信仰は社会の保守派と奇妙な共犯関係を切り結ぶことになるのだけれど、ヴェーニャの保守性は体制側の妥協的保守主義をはるかにしのぐ。その狂信的なラディカルさは、既存の秩序の欺瞞を暴き立てる。金にまみれた教会の腐敗を糾弾するヴェーニャの憤懣の炎が燃えさかるの言葉に、物質的な富を捨てて精神的な救いをのみ求める生き方に回帰すべきだというヴェーニャの厳粛な氷の刃のような言葉に、司祭は真っ向から反論することができない。コンドームの正しい使い方や、自然状態にある動物たちが実践する同性愛の事例を教えようとする生物教師エレナにやりかえすために、ヴェーニャはクラスメートの面前で真っ裸になり、性的放縦を断罪し、禁欲的で貞淑な男と女の関係を唯一無二の交わりと喧伝する。そのようなトラブルメーカーのヴェーニャをなだめようとして女校長がとる行動とは、ヴェーニャではなく、エレナのほうを諫めることである。女校長にしてみれば、健全な性教育によるセーフセックというエレナの推す方向性より、ヴェーニャの述べる貞淑な男女関係のほうが好ましいかのように。
ヴェーニャが周囲に振りかざす権威はすべて、聖書からの引用である。彼の言葉を否定することは聖書の権威それ自体を否定することになりかねない。だからこそ、校長にしても司祭にしても、ヴェーニャの言葉を正面から退けることができない。搦め手しか使えない。だからふたりは、ヴェーニャの言うことにかならずしも賛成しているわけではないにもかかわらず、ヴェーニャに加担することになってしまうのだ。そしてヴェーニャと真っ向から対決するエレナにしても、なにかまったく別の権威を持ち出すのではなく、ヴェーニャがよりどころとするのと同じ聖書を違ったかたちで解釈することによって、ヴェーニャとはまったく別の世界観――ホモソーシャルでホモセクシュアルな友愛――を引き出す。だからふたりの対決は、科学と信仰というふたつのパラダイムの対決というよりは、聖書の正しさを握るのはどちらかという覇権戦争となる。聖書の権威は温存されたままだ。
ヴェーニャはどこかインセル――非自発的独身者 involuntary celibate――を思わせる。女にもてない独身男のやせ我慢でしかない禁欲性。しかしそれは、男に付き従う従順な女という男性中心主義が充たされないことからくるルサンチマンにすぎない。幾重にも倒錯しているのだ。男女平等が社会の基本理念となってきている世界において、いまなお男性中心主義を謳歌するスクールカースト上位の男たちへの敵意であり、そのような男たちに惹かれる尻軽な女たちへの敵意である。本心ではカースト上位の男のように女を支配することを望みながら、それがかなわないから、彼らの望みを充たしている男女をこき下ろす。女に相手にされないという個人的な問題が、「社会が悪い、男女平等が悪い」という時代にたいする恨みに転化し、女に相手にされるように自らが変わろうとするのではなく、女に相手にされない自らのダメさ加減、強いられた禁欲性を、むしろ誇りの種であるかのように喧伝する。自己憐憫の反転としてのナルシシズム。問題のすり替え。こうして、彼らの充たされない欲望がたどりつくのは、女全体にたいする敵意、無差別の女叩きである。まるで女が服従していた時代に回帰すれば、自分も自らの欲望をやすやすとかなえられるかのように。女一般を嫌いながら、個人的には具体的に女を従わせたいかのように。ヴェーニャが聖書から引き出す性道徳は、オンライン・カルチャー(であり、カルトであり、ヘイト・グループ)であるインセルのルサンチマンの引き写しと言えなくもない。
にもかかわらず、ここにはそうしたネットコミュニティの影はない。なぜヴェーニャが宗教に傾倒するようになったのか、その経緯はわからないままだ。母の離婚、精神科医との不貞のような、家庭の事情はあるのかもしれない。学校の授業で宗教について習ったせいでもあるかもしれない。セクハラ的な指導をする体育教師、リベラルな性道徳をかかげ進歩的な科学教育をする生物教師にたいする反感もあるかもしれない。スクールカーストからくるいじめの問題にたいする嫌悪もあったのかもしれない。たとえ彼自身はむしろ孤立しているほうで、いじめられる対象からすら除外されているような存在だったとしても。つまるところ、ヴェーニャの聖書にたいする傾倒は突然変異のようにしか見えない。インターネットが作り出した反響室(エコー・チェインバー)のなかで増幅された、倒錯したもてない男たちの憎悪にヴェーニャが駆り立てられているわけではない。にもかかわらず、セレブレンニコフの映画は、現代の社会状況をめぐる諷刺にほかならないだろう。
ジョーカーともいうべき2枚のカードがある。反ユダヤ主義と児童虐待だ。それはいわば宗教的感情にたいする侮辱をも跳ね返すことのできる最強の札ではあるが、学校という児童が守られるべき場においては、児童虐待のほうがより強い切り札であるからこそ、反ユダヤ主義的発言というヘイト・クライムを犯したヴェーニャを糾弾するエレナは、校長を含めた学校教員たちと母親が列席する最後の舌戦のなかで性的虐待を受けた――体を触ってきた――という爆弾発言をするヴェーニャに打ち負かされる。児童にたいする性的虐待、それはいわば、それまでどれほどのトラブルを起こしてきた問題児であろうと、絶対に生徒の側に立って擁護されなければならない事案である。だからこのカードを切られたエレナは、あたかもこの疑いによって全人格を否定されたかのようになる。何を信じるべきか、何を信じなければいけないのか。すべてが混乱してくる。そして校長は、真実を究明するより、もっとも事なかれ主義的な選択肢――エレナの解雇――を選ぶ。ヴェーニャの証言が正しくないこと、エレナが冤罪をかけられていることを、わたしたちは知っているからこそ、この日和見な判決に唖然とさせられるが、それでも、映画はエレナにたいする全面的な共感をかき立てようともしない。それに続くシーンのなかでの彼女の神経質な身体の所作をとらえるカメラは、完全に敵対的とまでは言わないが、政治的にリベラルだが性格的にはヒステリックで独善的という「高学歴な女」のステレオタイプを強化することを目論んでいるかのようでもある。
もうひとつ不思議なカードがある。奇跡だ。片足が短いせいで足を引きずるグレーシャを癒そうとして、ヴェーニャは神の奇跡を祈るが、無残な失敗に終わる。質素で厳粛な修道僧のような生活を送ろうと、洒脱な壁紙を引きはがし、家具も取り払い、窓を板でふさぎ、床にマットレスだけという荒涼とした部屋のなか、足に触れながら祈りの儀式を始めたヴェーニャに「そっちの足じゃないよ」とグレーシャが言うとき、そこにはなにかひどく滑稽なものがある。祈りによって足が伸びないのは信仰が足りないからだとヴェーニャがグレーシャを叱りつけるとき、そこにはカルト宗教の洗脳の論理が見て取れる。しかし、ヴェーニャにしてみれば、みずからの信仰心の試練であるかのようなこのマッサージが、グレーシャにしてみれば、きわめて性的な触れ合いとなる。弟子同士の愛、それはエレナが聖書解釈によって引き出そうとするものであり、その意味で、グレーシャとエレナは仮想的に連帯しているともいえるのだが、それはヴェーニャにはけっして認められないものである。
邪魔者であるエレナを始末しようと決めたヴェーニャに、磔となったイエスの姿が見える。しかし居間に現れた十字架がヴェーニャの見た幻なのかは、わからないままだ。ヴェーニャと同じように、エレナも幻を見るだろう。しかし彼女のもとに顕現するのは、イエスではなく、ヴェーニャに殺されたグレーシャであり、彼の警告が彼女の命を救うだろう。なるほど、女子学生から誘惑を受け、それを退けるヴェーニャにはたしかに聖者じみたところはある。しかし彼は結局のところ偽預言者にすぎず、反キリスト者ですらあるようにも見える。彼の唱える福音は普遍的愛ではなく、幾重にも差別主義的なヒエラルキーであり、そのなかでは、ユダヤ人も同性愛者も、貞淑でない男も女も、彼が恣意的に抜き出した聖書の文言に従わない者はすべて、断罪の対象となる。
誰の立場も全面的には肯定できない。誰もが異なった利害を持ち、別の目的のために動いている。しかし、だからといって、誰もがそれなりに正しいわけではない。校長の輿巾着のようなスターリン礼賛派の歴史教師、セクハラな体育教師、いじめっ子らのように、まったく正しくない者たちもいる。ここではまるで普遍的な正義が不在であるかのようなのだ。暗い階段を疲れた様子で上っていくシングルマザーから始まるセレブレンニコフの映画は、いわば最初からホラー映画的なイマージュに充ちている。もしホラーのカタルシスが、ホラーそのものの最終的な解決というよりは、ホラーの正体の開示によってもたらされるとしたら、この映画にカタルシスがないのも当然だ。とりあえずの解決はあるが、ホラーの正体はわからないままだ。わたしたちをホラーの只中に取り残されている。
しかしながら、少なくとも、わたしたちがホラーのなかを生きていることは明るみに出された。問題は、そのホラーの正体が暴かれうるかどうかである。価値観の多様化がもたらした相対主義と、新自由主義的な個人主義のなか、「うちはうち、よそはよそ」「気にいらなければ、ほかのところへいけ」という排他的な個人主義的自由がまことしやかに唱えられるなか、真実のような絶対的で集合的な普遍性の存在をあえて信じることができるかどうかである。エレナのように、絶望しながらも留まりつづけることができるかどうかである。セレブレンニコフの映画は暗く重い答えのない問いをわたしたちに投げかけている。