うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

エピデミックの倫理的・政治的帰結批判の倫理的・政治的帰結にたいする盲目:ジョルジョ・アガンベン『私たちはどこにいるのか?』(青土社、2021)

アガンベンの問題意識はぶれていない。「エピデミックに関する科学者間の論争に入りこもうというのは私の意図ではありません。私が関心があるのは、そこから派生する、きわめて重大な倫理的・政治的帰結にです」(60頁)。

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COVIDというウィルスを過小評価しているように見える部分は多分にあるが、アガンベンはそれを自らの意見として開陳するのではなく、科学者たちの見解を引用することを選ぶ。誰の言うことを、信頼できる事実、証明された真実として提示するのかは、つねにすでに、政治的な問題を含んでおり、一方では科学者たちの言葉を額面どおりに引きながら、他方では、パンデミック下において科学が宗教となったと批判するのは、一貫性を欠いているようにも感じられる部分もある。しかし、アガンベン省察が「エピデミックに関するものではなく、エピデミックに対する人間の反応から私たちに理解できることに関するもの」(51頁)である点は、強調しておかなければならない。

本書のなかでアガンベンがわたしたちに提示する省察は、『ホモ・サケル』をはじめとする彼の一連の著作——生の政治的管理の問題性――に慣れ親しんでいる読者からすると、予想どおりのものと言ってもいい。

911はテロにたいする戦争という名のもとに、「セキュリティ」を至上の目的とする統治パラダイムが作り出された。Security Stateは、国民の安全という口実によって、市民の自由を制限し、法を作り替え、市民の生活を再編成していった。西洋政治史における近代的な達成——「憲法、諸権利、議会、権力分立にもとづいたブルジョワ民主主義」(141頁)――が切り崩され、憲法が踏みにじられ、立法権が行政権に取って代わられ、例外状態が常態化した。現在のパンデミックのなかで起こっていることは、その反復である。セキュリティが健康という名に変わったことを別にすれば(141頁)。

科学者たちがそのような「バイオセキュリティ」統治システムに自意識的に奉仕しているとは、アガンベンは考えていないようである。それに、彼は、COVIDに対処しようとする科学者たちの善意を疑っているわけでもない。しかし、科学者たちの意図はどうあれ、それが結果的に、バイオセキュリティ国家の強化に陥ってしまっていること、その結果、近代的な市民権が大いに切り崩されているという政治的帰結を、アガンベンは問題化するのである。語源的に「デモス」=人民という言葉を含む「エピデミア」は、そもそも政治的なものであり(103頁)、科学的な善意が悲惨な結果を生んだことは、ナチの例がそうであるように、あまりにも明らかである。

私たちの眼前で創設されようとしているバイオセキュリティというパラダイムによって、いまや市民権という観念は完全に変化してしまい、市民はあらゆるタイプの管理、制御、嫌疑を掛けられる受動的対象となりました。市民が剝き出しの生物学的実存へと縮減されているということを、パンデミックはまったく疑念の余地なく示しました。このようにして、市民は難民という継承に、ほとんど見まごうほどに近づく。難民はいまや、市民の身体自体の内部にあるものとなりました。このように描かれる新たな内戦においては、敵は、ウイルスのように、自らの身体の内部にあります。よくあることですが、闘いの相手と自分があまりに似てしまうと、内戦はさらに残忍なものに、休戦などありえないものとなります。(154頁)

バイオセキュリティ体制の強化による、市民の難民化によって利益を得るのは、現在の例外状態のなかさまざまな統治実験を行う国家ということになるだろう。「テロを前にして、自由を保護するために自由を抹消する必要があると断言されたのと同じように、いまは、生を保護するために生を宙吊りする必要があると言われています」(63頁)と語るとき、アガンベンは、バイオセキュリティ国家の根源的な矛盾をついている。

では、それにどう抵抗すればよいのか。どのような倫理的・政治的態度を対抗させればよいのか。

「バイオセキュリティ」を至上目的にして至上命令とするようなわたしたちの感性や思考を変えなければならない、ということになるだろう。「近代政治は徹頭徹尾生政治であって、そこに最終的に賭かっているのは生物学的なものとしての生命です。今回、新たになっている事実は、健康が、いかなる対価を払っても果たすべき法的義務になるということです。」(65頁)。アガンベンの狙いは、健康第一主義の脱構築であるとともに、健康を法的義務とする態度、生を法律的な領域に囲い込もうとする姿勢の問い直しである。

COVIDによる死者数を、COVID以前におけるさまざまな疾患の死者数と比較するとき、アガンベンはCOVID否定論者と同じような議論をしているように見える(100‐103頁)。そして、それをひとつの足掛かりにして、死者数という意味でいえば過去の伝染病ほど危機的であるとはいえない現在の状況において、過去に例のない緊急事態を宣言する根拠はどこにあるのかと言うとき、アガンベンは人心を逆なでにするようなことを述べていると言っていいだろう。

しかしながら、アガンベンの議論は、死んでよい命、見殺しにしてよい命があるというようなものではない。人口のなかのどこかの層がリスクにさらされ、死んでしまうのは、仕方のないことだというような悲観主義や諦観の表明でもない。そうではなく、アガンベンは生や健康を至上のものとする現在のパラダイムにたいして、死を考えるという問題を掲げているのだと言うべきである。たしかに彼は、対面の人間的な交流を言祝いでいるところがあり、その意味では、ノスタルジックでロマンチックな科学否定論者、科学軽視の人文主義者のように映る側面はあるし、意図的にそのようなポジションを取っているのではないかと思われる部分もある。バッシングにさらされやすい立場をあえて選ぶ自分のヒロイズムに酔っているきらいも、ないとはいえないように思う(168‐69頁)。

しかしながら、彼の思考の根底に、ハイデガー的な問題意識——死の問題――があることは、まちがいない。それは、死という絶対的な出来事、誰の身にも起こること、誰も逃れえないこと、誰もが自ら向き合わなければならないただ一度かぎりの出来事と真正面から向き合い、そのような思考や態度を起点にして、いまここの生の在り方を問い直し、作り直すことである。アガンベンはそのためにこそ、ミシェル・ド・モンテーニュを引用する。

死が私たちをどこで待っているかは定かではないのだし、私たちのほうが死をいたるところで待とう。死についてあらかじめ熟考することは、自由についてあらかじめ熟考することである。死ぬことを学んだ者は、隷従を忘れたのである。いかに死ぬかを知ることはあらゆる隷属や拘束から私たちを解放する。(71頁)

死をとおした生の問い直しは、現代消費資本主義の押し付けるライフスタイル――無駄な商品の購入、休暇のために遠隔地に旅行(43‐44頁)――の問い直しである。自分の住む都市や村を観光地に変えてしまい、そこに「住む能力」(46頁)を喪失してしまったわたしたちは、パンデミックのあと、前のくらしに戻るべきではない。「私たちはどこにいるのか?」(48頁)という「唯一の重要な問いを真面目に」立てなければならない(47頁)。

私たちは自分たちが忘れてきた多くのものを学びなおさなければならないだろう。私たちは何よりまず、自分たちの生きているこの地球に、また自分たちの住んでいる都市に、これまでとは異なるまなざしを向けなければならないだろう . . . いま生活している場所に住むことを学びなおすこと、その場所により注意深いまなざしを向けることを学びなおすことのほうがもしかすると急を要するのではないかと自問しなければならない。(45‐46頁)

 

パンデミック初期(2020年2月から7月)にかけて書かれたこれらの小テクスト群におけるアガンベンの主張は、以上のようにまとめられるだろう。

おそらく、アガンベンの議論の問題性は、これは彼のこれまでの著作での議論をかけ離れていることではなく、あまりに連続的であり、COVIDという新たな危機において、アガンベンがみずからを模倣しているかのように映る点ではないかという気がする。アガンベン自身が、彼自身の思索から、COVID陰謀論のようなものの思想的支柱を提供してしまっている点、彼が意図せずして、個人の自由を絶対視するようなマッチョな価値観と共犯関係に陥ってしまっている点ではないかという気がする。

とくに彼がCOVIDのリスクを「死者数」という数字で語るとき、かれは個々の生のシンギュラリティを統計的なデータによって代替させていると言えるのではないか。そのような態度は、彼の意図に反して、生きる価値のある命とない命のような区分を正当化するためのツールとして利用されてしまうのではないか。

アガンベンの議論を乱暴にまとめれば、わたしたちはCOVIDに過剰反応し、生や健康を無批判に祀り上げ、その結果、国家の増長を許し、結果的に、自分自身の生や健康にたいする自己決定権を譲り渡している、ということになると思う。しかし、では、どのような反応であれば、適切な反応であると言えるのだろうか。

わたしたちひとりひとりが死という出来事を受け入れることと、社会としてどの程度までの死者数や死亡率を許容するのかという問題は、地続きではあるが、別問題である。どの程度の死者数であれば受け入れられるということを、アガンベンは言おうとしているのではない。自分を安全地帯においたうえで、悠然と他人の死を扱っているわけではない。彼は自分の死のリスクを軽視しているわけでもない。というよりも、そのようなリスクを重々承知のうえで、それでもなお、人文的な共同体——学ぶために遠くからやってきて、言葉を交わし、友好を深め、物理的には再び別れようとも、精神的には深く結ばれている―――にコミットしているのだとは思う。

資本主義批判は正しい。バイオセキュリティ統治システム批判も正しい。しかし、彼の提示するオルタナティヴが唯一のオルタナティヴであるかどうか、安全=生=健康のオルタナティヴとなる価値観が何なのかということになると、アガンベンのスタンスは、最良のものであるとはしても、依然として旧来的なものであるヒューマニズムの伝統に寄りかかっていると言える。

そして、そこにある正当なノスタルジーやロマンティシズムは、現代における多様性の尊重と包摂——普遍的であるべき人権を真の意味で普遍的なものとして、だれひとりとしてそこから排除されるないような共同=共生の在り方の模索——を覆さんとする保守的価値観と共犯関係に陥り、結託してしまう危険があるのではないか。自らのスタンスから引き出されうる「倫理的・政治的帰結」について、アガンベンは、楽観的であるように見える。彼の議論の最大の問題点は、そこにある。