うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

純粋なシニフィアンのダンス:運動するイマージュとしてのカルロス・クライバーの音楽

カルロス・クライバーの音楽は純粋なシニフィアンなのかもしれない。何かを表現するのでも描写するのでもなく、音自体がある。音のダンスだ。その手前にも、その向こうにも還元できない、音そのものの運動のエネルギーが、クライバーの音楽なのだ。

極論すれば、ここにはニュアンスだけがある。リハーサルを見ると、クライバーが心血を注いでいるのは、楽器間のバランスのような大枠ではなく、個々の楽器のフレーズの作り方のほうであるように感じる。たしかに音量についての指示は多いけれど、それにしたところで、数量的に計測できるような意味での音量ではなく、質的なものとしての音の騒々しさや静けさについて語っているような気がする。

クライバーの音楽はアンチ方法論だ。クライバーの指示のひとつひとつを取り上げてみれば、案外具体的ではあるけれども、そのすべてを統合する明確な原理があるのかといえば、ないように思う。クライバーの音楽は何らかの外在的な美意識や音楽観に依拠しているわけではない。どこまでさかのぼっても、クライバーという人の個人的な感性的世界、主観的なイマージュの理想郷にしか、たどりつかないのではないか。

 

とはいえ、カルロスが父エーリッヒを崇拝に近いほど尊敬していたことはよく知られているし、父が手を付けなかったレパートリーはカルロスも手を付けていない。しかし、たとえカルロスの音楽の雛形が父の演奏であるとしても、カルロスのそれは父のコピーではない。エーリッヒはカルロスの起源であるとしても、カルロスの音楽はそこから演繹的に引き出せるものではない。たとえ同じ楽譜を使っているとしても、カルロスの音楽は、エーリッヒの音楽には還元不可能である。

エーリッヒのバトンは直線的な振り下ろしが基調で、ときおり切り裂くような鋭い切込みを見せる。エーリッヒの体幹はどっしりとしていて揺らぐことがない。

カルロスのバトンの基本運動は曲線だ。水をかきわけて泳ぐ腕のような、粘りのある液体のなかを優雅に力強く手をひらりと舞わせるような動きであり、水面を滑っていく石切のように横に横にとかろやかに疾走していく動きだ。

しかし、このなめらかさに、スタッカートの歯切れの良さが加わる。縦に弾むような動きもあるし、何かをつまむように前後に動くものもある。その移り変わりは一瞬の出来事だ。カルロスの音楽の自在さは、動きの方向性が自在であること、ベクトルの異なる運動をシームレスにつないでみせるところにある。そして、本当ならば強引であるはずの方向転換から、スリリングな愉悦感が生まれる。

 

リハーサルを見ると、カルロスが、歯切れよく旋律を歌っている場面をよく見かける。カルロスの指揮は決してメトロノーム的な意味では明確な拍子を刻んでいるわけではないけれど、音楽のためにはっきりとした拍子感覚が必要されるところでは、彼の音楽は明晰になる。

しかしここでも、重要なのは、クリスプな弾むような音の質感であって、音の長さ自体は二次的であると言ってもいい。正確に言えば、ここでは、演奏技術はカルロスの求める音楽という目的のための手段でしかないのだ。

 

だからカルロスの音楽はきわめて純粋でもある。リハーサルでカルロスはきわめて印象的な比喩を用いながら、奏者に自分のイメージを伝えていくけれども、それでは、クライバーの音楽が描写的なのかというと、そうではないと思う。自分の目指す音楽を言語で表現する天性をクライバーが持ち合わせていたことはまちがいないけれど、彼の音楽は、「XXのような」音楽ではない。おそらく真実は逆だろう。彼の音楽が、比喩となるのだ。「クライバーの音楽のように軽やかに弾む足取りで」というように。

クライバーがフレーズのニュアンスを歌と身振りで伝えようとしていることは、その意味で、きわめて示唆的だ。音楽づくりのために言葉は駆使される。奏者を慰撫するために、称賛の言葉をふんだんに投げかける。しかし、究極的には、クライバーの音楽は、音以外の何か、音楽以外の何かを、顕現させるものではない。

 

彼の音楽は危ういバランスのうえに成り立っていた。クライバーが年を経ることにますます気心の知れたオーケストラとしか演奏しなくなっていったのは、わかるような気がする。彼の演奏は、いわば、曲を知っているオーケストラでなければ、彼が知っているのと同じような方向性で曲を知っているオーケストラでなければ、成立しないだろう。それは、クナッパーツブッシュのような指揮者の仕事相手がヨーロッパのオーケストラに限られていたことと、同種の現象である。伝統が共有されているところでしか成り立たないものはある。

純粋な運動性である音楽は、それを体現する身体能力に大きく左右される。加齢とともに体から俊敏さや柔軟さが失われていけば、それは、ダイレクトに音楽に跳ね返る。内面で響いている音楽と、実際になっている音とのギャップが、悲劇的なまでに拡がっていく。それは、理想主義者であれば、自己批判的な性向の強い人間であれば、堪え難いことだろう。

 

クライバーの音楽は、もしかすると、聴くものというよりは、見るものなのかもしれない。それは、彼の指揮姿を見るという字義的な意味でもあるけれど、彼の音楽を、空間に響く共時的なものというよりも、時間のなかを動き、変転していくイマージュとして捉えるという比喩的な意味でもある。

まったく映像的な情報なしに、指揮姿を捉えた一枚の写真すらなしに、カルロス・クライバーの音楽を聞くことは、まったく不完全な行為であるように思う。映像が彼の音楽を補完するというわけではかならずしもないけれど、彼の音楽を、彼の表情から、手の動きから、身体的な躍動から切り離して捉えることは、きわめて不自然だ。

出どころはよくわからないが――YouTubeにあったドキュメンタリーのなかでインタビューに答えているメイクアップ担当者が言っていることから想像するに、これは楽屋裏に流れていた中継映像なのかもしれないが、それが記録されて残っていていまYouTubeにアップロードされていることはやはり驚きだ――、オーケストラピットのなかで指揮をするカルロスを正面から捉えた白黒映像こそ、カルロス・クライバーの音楽の真実を記録しているメディアかもしれない。

 

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