うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

差延的な開かれ:岡田利規『三月の5日間』(白水社、2005)

岡田利規『三月の5日間』のあらすじをまとめるとなにかとんでもなくつまらない戯曲のように聞こえるかもしれないけれど、実際くだらない話なのだから仕方ない。3月のとある5日間渋谷の道玄坂のラブホテルにこもってやりまくった話。それが芥川龍之介の「藪の中」/黒澤明の『羅生門』のように、少しずつ視点を変えながら。少しずつ進み、行きつ戻りつしながら、何度も語り直されていく。

ミニマル・ミュージック的な繰り返しだ。繰り返されることそれ自体に意味があると言ってもいい。芥川‐黒澤は反復によって藪の中の真実を描き出そうとする。真実は最後真で藪の中であり、謎はむしろ深まるだけだけれど、それでも謎の解明のためにこそ、同じ出来事が複数の視点から語られるのであり、そのモデルとなるのは裁判である。だからここには、物語の中心ではないけれども、物語の謎を精査するための上位のキャラクターがいる。裁判官のようなキャラクターが。だから物語は水平的に反復的であるけれど、物語の登場人物にはある種の上下関係がある。

岡田の『三月の5日間』にはそうしたヒエラルキー構造はない。物語は繰り返されるが、それは何かしらの謎を明かすためではなく、繰り返されるために繰り返される。繰り返しは物語構造における前提条件のようなものであって、物語内容の要求するところではない。ミニマル・ミュージックにとって反復は決まり事であって、それ自体として正当化される必要がないかのように。

しかし、にもかかわらず、岡田の戯曲の繰り返しは、きわめて自然に発生する。内容的にいえばくどい、まさによくない意味での反復的ということになるのだけれど、それは手詰まり感からとりあえずリピートしてみたというふうでもないし、厳密に全体の構造を決めてそれを少しずつ細部細部へと下ろしていったような神経質に作り込んだがゆえの繰り返しでもなく、フリーハンドでのびのびと繰り返しているような趣がある。もちろん実際はそんなことはなく、細部まで考えられているのだろうけれど、戯曲を読んで感じるのは、勢いのほうである。

ここにはなにか麻薬的な陶酔感もある。それは岡田の言葉の疾走感がもたらす気持ちよさではあるけれども、戯曲が反復的な構造をもつようにセリフ自体もきわめて反復的だから、その相乗効果もあるのではないかという気がする。形式においても内容においても、マクロにおいてもミクロにおいても、同じ原理――反覆によるズラし――がある。それはもしかするとジャック・デリダのいう差延différanceのようなものかもしれない。空間軸=静止画のなかではなく、時間軸=動画のうえで展開されていく差異の戯れだ。

 

『三月の5日間』のなかで語られるのは、きわめて私的な事柄だ。道玄坂のラブホでヤリまくったという話は、閉じた話であると同時に、きわめてプライベートな話でもある。しかし、飲み屋での馬鹿な打ち明け話のようなこの体験談が、突如として、世界史的な出来事と交錯する。イラク戦争である。

六本木のライブハウスに登場したバンドが渋谷での反戦デモに加わった話が、何度も反復される。それは戯曲にとっての確固たる参照軸であるばかりではなく、内向きな自分語りが否応なく世界へ接続されてしまう瞬間でもある。わたしたちのプライベートな生は、意図しよう意図しまいが、望もうが望むまいが、気づくか気づかないかに関係なく、つねにすでに、世界の一部であり、世界と繋がっている。そのあたりまえといえばあたりまえではあるのだけれど、必ずしもわたしたちひとりひとりにとってはあたりまえに感じているわけではないあたりまえの真実が、突然、明らかになる。

その啓示があまりにもひそやかに、何度も繰り返される。そこが岡田の戯曲の特色かもしれない。劇は決して単線的なクライマックスを描かない。クライマックスは、ある。しかしそれは、とてもあきらかな事柄でもあるから、推理小説のネタ明かし的なカタルシスはない。そのせいか、岡田の戯曲は尻つぼみな終わり方をしているようにも感じる。それは仕方のないことではあるのだけれども、途中が面白いほどに、ラストの何気なさがちょっと物足りない。

 

しかし、不思議なリリシズムがある。ラブホを出て金を下ろして、割り勘分を払って渋谷駅で帰りに乗るのは別の路線であることがあってそこで別れるというシーンには、なんともいえない切なさがある。

それはセリフ全体に染み渡るものでもある。なんともいえない投げっぱなし感――じゃないですか――、断定を避けるけれどもそのくせ別のものがほのめかされるわけではない言葉の濁し方――とか――、それは単体で見ればむしろ苛立たしいものかもしれないのだけれど、このように複合的に組み合わされると、なぜかもっと続けてほしいという気になってくる。

 

引きこもりの開かれ。岡田の戯曲がとても突き抜けた感じがするのは、モノローグが突如として飛んでしまうからだろう。突拍子もないことに話がおよぶ。それは妄想的な冗語であるのだけれども、その無駄話が、わたしたちを、わたしたちの閉じたプライベートなところから、地球規模の、宇宙規模の想像力につれさっていく。なるほど、それは厨二病的な妄想にすぎないのかもしれないけれど、岡田はそれを、ノリツッコミ的な抒情性に昇華している。

過去が現在と繋がり、未来に拡がっていく。妄想が未来に通じていく。この脱線的な部分はかならずしも戯曲のメインパートに還流しないけれども、ほころびのようなこうしたリリシズムこそが岡田の魅力であるようにも思う。

メタ的でありながら、メタ的であることに意識的で、でもそのメタ性をネタとして戯曲に戻していくのだけれど、そのネタはどこか飛び道具的な感じで、でもだからすごく惹きつけられる。

岡田の文章のノリは感染的だ。いつのまにか彼のような日本語を書いてしまっている自分に気がつくけれど、それが嫌ではない。そこが彼の日本語の不思議な魅力であるように思う。

 

この文章とかって、いつも私は私の勉強部屋で書くんだけど、勉強部屋って言っても今の私はもちろんもう勉強なんかしないんだけど、私にとってはでもここは勉強しなくても子供のときからの勉強部屋なんだけど、私は子供のときはかなり勉強した、勉強がかなり好きなほうのこれでも子供だったから、それがかなり懐かしくて、自分の大切な部分だったりすることもあったりするんでいまだに私的には、この部屋は呼び方は勉強部屋ということになってるんだけど、親に言うときはでも部屋って普通に言うんだけど、今はでもホームページの更新とか、こうやって日記を書いたりとか、まんがを読んだり或いはまんがを描いてみたりとかするときもたまに実はひそかにあるんだけど、そういうこととか勉強部屋でいまだにしてるんですけど、そういうことをずっと集中して勉強部屋でやってるとふとすごい、勉強部屋がなんか小さな宇宙船みたいに感じられてくることがあるっていうか勉強部屋だけ家の他の部分からも切り離されて単独になってそれは飛んでるんだけど、宇宙空間をほんとにこれだけの小さな宇宙船なんだけど、でもすごく空気とか静かな透明っていうか孤独感とかみたいのがすごくいい感じの、なんだろう、私ひとりだけっていうのが私はやっぱり一番好きだなってすごく思うときの感じが充満して、ドアを開けたらなんか、無重力で、空気のない真空の空気が入ってくる、窓のカーテンを開けたらたぶん宇宙の景色になってるんだよ今絶対、っていう、すごい、感じがするときがって、自分がそういうときってもうそれだけが誰が何と言っても自由っていう、ずっとそんな感じで生きていたいよ、とかぶっちゃけほんとそう思うって感じなんですけど、このノリでほんとこれに乗ってそのまま火星行っとこうよ、っていうかだって地球とかいって戦争とかも始まるし、中国とかSARSとかいって、地球とかいって石油とかあと何十年たつとなくなるとか言うし、でもまだ私、普通に考えてその頃まだ全然生きてるんですけどみたいな、ある意味地球とかは、だからもう、終了、って感じだと思うんだけど、劣化ウラン弾とかすごい打ち込まれた辺の空気とか吸うと超ガンになるっていうやばい劣化ウラン弾とか、地球だからいろんな意味でもう、火星とかのほうがほんと、別に火星じゃなくてもいいと思うんだけど木星とか、でも絶対に今のうちから絶対地球から別のどこか星とか惑星みたいなところに本気で逃げることとか考えたほうがいいって絶対、ほんと、みんな! みたいな思いが実は結構溢れがち、っていうか、うわーなんかでも、この日記も今書きながらやっぱり思ったんだけど、なんか今日、私、映画館で会った人に実はいきなりキュンしちまってよー、みたいな、それでなんか告って、思い切りハズして、ってのをやっちゃった並みの、この日記も、ハズしちゃってるよねえ、っていう、分かってそれをやってるあたりが、私のハイパーなとこだ。(50‐52頁)