うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

『マイスタージンガー』のハンス・ザックスの革命性

ドイツ語再勉強のためにワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のリブレットを読みながら、このオペラにおけるハンス・ザックスの立ち位置がわからなくなってきた。

彼がニュルンベルクにおいて尊敬を集める人物であることはまちがいない。ギルドの組合員たちに信頼されていることは、彼が3幕の歌合戦の前口上を任されていることからもわかる。

しかし、ザックスが絶対的な権威なのかというと、そういうわけでもない。1幕の議論であきらかになるように、彼は一貫して教条主義にたいして批判的であり、マイスターたちが作り上げてきた規則より、民衆のいわば無意識的な感性にこそ、芸術の生命を見出だそうとしている。

民衆のなかにあるものを体現する存在としての芸術家というビジョンを、ワーグナーは1848年の革命前後に執筆した文章のなかで提示している。ジョージ・バーナード・ショージークフリートバクーニンの姿を見ていたが、ザックスにもその片鱗は見て取れるように思う。

ザックスは実在の人物であり、ルターの宗教改革を支持したというが、そのあたりも含めて考えると、ザックスは決して一筋縄ではいかない多義的なキャラクターだ。

だとすれば、3幕最後のあのナショナリズム的問題発言――ドイツの民と王国(Reich)が、まやかしの異国[ロマンス系]の支配(falscher wälscher Majestät)に脅かされている――を、どう捉えればいいのか。この危機意識こそ、第三帝国におけるワーグナープロパガンダ的使用に繋がっていくものだろう。オペラ幕切れの「ザックスを讃えよ Heil, Sachs!」は、ヒトラー以後、完全に汚染されたフレーズといわざるをえない。

しかしながら、この直前でコーラスが繰り返すザックスの結びの言葉は、「神聖ローマ帝国は霧に溶けようと、真正なるドイツの芸術は変わることなく残りますように!(zerging' in Dunst/ das heil'ge röm'sche Reich,/ uns bliebe gleich/ die heil'ge deutsche Kunst!)」であり、それは政治による芸術の庇護というよりも、政治を超越する芸術への希望の表明であるようにも思う。VolkもKunstも、いわば、前‐政治的なものである(もちろん、だからといって、それらが政治的に利用されないわけではないが)。

喜劇である『マイスタージンガー』は矛盾に充ちている。エヴァは歌合戦の「賞品」である。その父ポーグナーは、マイスターの芸術を讃えるために、愛娘を歌合戦の勝利者に妻として与えると高らかに宣言するが、彼女に拒否権を与えるかどうかでギルドの議論は紛糾する。ヴァルターに惹かれつつ、ザックスに歌合戦に出るように促すエヴァは、純真な町娘ではなく、『パルジファル』のクンドリーのような無意識的誘惑者に連なるキャラクターではないか。

ザックスやエヴァの多義性に比べると、ヴァルターはわりと1次元的で、ひねりがない。しかし、「騎士(Ritter)」と呼ばれる「貴族(Junker)」階級の彼が、自らの「地所と城(Hof und Schloss)」を後にして、「都市市民=ブルジョワ(Bürger)」になるためにニュルンベルクに来たという設定は、彼が、中世的な封建制都市国家(本作品の歴史的文脈)と、近代的な市民社会ワーグナーの生きた19世紀の状況)を架橋する象徴的存在ということを意味するのかもしれない。事実、ヴァルターは、1幕のアナーキックな歌を、フォームにはめることによって、3幕の歌合戦をものにする。それはいわば、貴族階級が町人階級に絡めとられるプロセスだ。

ベックメッサ―の扱いには、徹頭徹尾、悪意が込められている。モーツァルトは、たとえプロット的にもキャラクター的にも悪辣な役柄でさえ、それらを贖うような音楽を贈った。たとえば『魔笛』のモノスタートス。部下たちにはあざけられ、上役からは残酷に扱われ、女性に言い寄っては拒まれ、姦計をつくして自らの望みをかなえようとするモノスタートスは、嫌われ者だ。しかしそのような彼にモーツァルトは素晴らしく美しいアリアを歌わせる。それはワーグナーが決してやらなかったことである。ベックメッサ―は音楽においてもあざけられる。同じことは、ワーグナー反ユダヤ主義の表現と見なされるミーメにも当てはまる。彼らに割り当てられた旋律はひたすら滑稽で、馬鹿々々しい。ここにワーグナーという人間の本源的な悪意を感じないわけにはいかない。

 

リブレットを見ながら音源を聞いてみると、ドイツ語ネイティヴの指揮者とオーケストラとキャストの録音であれ、言葉が完全に音楽にはまっているわけでもないことに気がつく。というより、かなりの部分で言葉は旋律にはならず、シェーンベルクがシュプレッヒゲザング(語られる歌)と後に呼ぶようなものに接近しているのではないかという気もしてくる。

 

重唱部分、とくにコーラスが入り乱れる2幕後半は、まさにカオスな喧噪であり、歌詞は聞き取れないのが正しいのかもしれないし、3幕におけるコーラスとザックスの対話は、形式的にいって(個と集団の対話の表象として)かなり革新的ではないかとも思うが、ヴェルディの『ファルスタッフ』あたりと比べると、音楽としてはいまひとつうまくない。