うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240304 シュトラウス/ホフマンスタール『薔薇の騎士』をドイツ語リブレットを見ながら聴く。

「警部、ご覧のとおりです。すべてはただの茶番劇、それ以上でもそれ以下でもありません。[Er sieht, Herr Kommissar: das Ganze war halt eine Farce und weiter nichts.]」と、3幕のドタバタ劇のあと、デウス・エクス・マキナのような役割で登場した元帥夫人が口にするこの一言が『薔薇の騎士』を的確にまとめているように思われるけれど、シュトラウスホフマンスタールの合作は、モーツァルトのような古典時代の喜劇と似ているようで大いに違う。

たとえば、『薔薇の騎士』は『フィガロの結婚』は、ともに、権力ある上層階級(オックス男爵/伯爵)が、下の階層の女性(ゾフィー/スザンナ)を手籠めにしようと画策するが、裏をかかれ(オクタヴィアン/フィガロ)、同じ社会階層の女性(元帥夫人/伯爵夫人)に諭されるという筋書きではある。権力側の人間が恥をかかされ、笑い飛ばされる物語。

しかし、『フィガロの結婚』は、究極的には、愛による和解——孤児であったフィガロは、実の両親であるマルチェリーナとバルトロと再会し、互いを親子として承認するし、傲慢な伯爵は改悛し、伯爵夫人の愛によって赦される——の物語であり、すべてが丸く収まるハッピーエンドだが、『薔薇の騎士』はそうはならない。古典主義時代のオペラのフィナーレは、登場人物すべてが勢揃いした大団円であると同時に、メタコメンタリー的な部分(物語の教訓を語る場)もあれば、後日談(たとえば『ドン・ジョバンニ』がそうだ)のようなところもあり、物語の物語性=虚構性が前景化する瞬間だが、『薔薇の騎士』にはそのような相対化のための枠は存在しない。たしかに、3幕の終わりで、「これは夢かしら、本当のことなのかしら[Ist ein Traum, kann nicht wirklich sein]」とつぶやくゾフィーを見守る父ファニナルと、自分から離れていくオクタヴィアンを見守る元帥夫人がいるとはいえ、それはあくまで物語世界「内」の距離であって、物語世界「外」からの視線ではない。

 

今回、ドイツ語のリブレットを目の前に置きながら、最初から最後まで聞いてみて、『薔薇の騎士』の仮題が『オックス』であったことが初めてよくわかった。登場シーンの多さとセリフの多さという意味では、まちがいなく、オックス男爵が主役なのだ。

しかし、『薔薇の騎士』をオックスが主役のオペラと捉える者はすくないだろう。『薔薇の騎士』の歌の旋律という意味での聴きどころとして誰もが挙げるのは、2幕冒頭の銀の薔薇の贈呈シーンのオクタヴィアンとゾフィーの二重奏であり——フルートとチェレスタとハープとヴァイオリンの合奏はまさに銀の響きがする―—、3幕終わりの元帥夫人とオクタヴィアンとゾフィーの三重奏だろう。それから、1幕半ばのイタリア語のアリア。女声に聴きどころが割り振られたこのオペラにおいて、オックスは重唱に絡むことがない。

オックスはつねに途中から舞台に登場する役柄であり、音楽的な盛り上がりの後、プロットを前に進めるための狂言回しのような位置づけになっている。1幕では、オクタヴィアンの元帥夫人の情事のあとの闖入者であり、2幕では、銀の薔薇の贈呈という天上の音楽をぶち壊す無粋で傲慢な男であり、3幕では、オクタヴィアンたちが仕掛けた罠にはまりこんでいく獲物である。オックスはこの劇の喜劇的な部分——物語内においてオクタヴィアンたちからコケにされるという意味でも、観客が高みの見物を決め込める相手であるという意味でも――を一手に引き受けているが、中間を担うだけであり、始まりと終わりを任されることがない。オックスがいて初めて物語が動いていくというのに、オックスに割り当てられるのは、最初から最後まで、レチタティーヴォ的なパートである。

 

というよりも、3時間半近くにおよぶこのオペラにおいて、歌手たちが旋律を歌うシーンはきわめて少ないと言うべきだろうか。なぜ今までこれほど明白な事実に気がついていなかったのかと、我ながら驚いたほどに。そのように錯覚してしまう一番の理由は、オーケストラの雄弁さだろう。歌手のパートはレチタティーヴォ的だとしても、オーケストラのほうはきわめて旋律的であり、それは最初から最後まで変わらない。だからこそ、言葉のほうが、旋律というよりもリズムに依拠するかたちで提示されていることに、わたしたちは意外なほどに気が付かないのだろう。ともあれ、『薔薇の騎士』はある意味、『ファルスタッフ』や『ペレアス』に連なる語るオペラに含めてよいのではないかという気もする。

しかし、『薔薇の騎士』の語られる言葉が、言葉として聞き取れるのかという別の問題もある。たしかにこのオペラでは、言葉はリズミックに提示されるが、それが言葉それ自体のリズムとシンクロしているのだろうか。むしろ、古典派の音楽によくある早口言葉のアリア——言葉の意味というより、音そのもの(同じ音や似た音の繰り返し)を愉しむもの——に似ているような感じもする。それに、複数のキャラクターが同時に発生する部分がわりと多いせいで、そもそも個々の発話を聞き取るのが難しい部分もある。

 

それにしても、いま『薔薇の騎士』を聞くと、喜劇の典型的キャラクターであるはずのオックス――無粋で好色で己惚れ屋の田舎貴族――に、奇妙な現代性を感じる。花嫁に持参金を払うのではなく、婚家から持参金をせしめとるために特例を設けろと公証人に迫ったり、気に入った女はすぐさまものにしようと欲望したり、追いつめられると見苦しい言い訳で切り抜けようとしたりする。要するに、トランプ的な姿をそこに見つけてしまうのだ。

ただ、Wikipedia に引用されているシュトラウスの言葉によれば、「オックスは35歳位の田舎者で、女たらしではあるがいつも貴族然としていなければならない(たとえ田舎貴族であろうと)」キャラクターである。たしかに、オックスは、最終的には、みずからの尊厳のために引き下がることができる男であり、その意味では、どこまでも自己正当化をやめてないトランプ的な類型とは異なる。それから、自分が格下と見なす商人階級のファニナルにたいしてはどこまでも強く出ることができるくせに、警察権力にたいしては腰砕けになるという意味でも、すべてを思い通りにしなければ我慢がならないトランプ的な類型とは異なる。そして、最大の違いは、『薔薇の騎士』においては、オックスを退場させることができる元帥夫人という存在がいるが、現在、トランプのような存在を制御できるものは存在しない点だ。この意味で、『薔薇の騎士』は『フィガロの結婚』のような調和的な秩序の回復には終わらないとはいえ、ある種の安定を作り出して終わる物語ではある。

 

いわゆる協和音や調性の枠内に収まっているという意味では、『薔薇の騎士』は、前作の『エレクトラ』や前々作の『サロメ』から後退してはいるけれど、非旋律的な言葉をここまで積み重ねていくという手法は、依然としてワーグナー的な半旋律的なレチタティーヴォを援用していた『サロメ』や『エレクトラ』とは一線を画するところがあるように思う。『薔薇の騎士』に比べれば、『サロメ』や『エレクトラ』の声楽パートはもっとずっと歌っている。

 

付け足し。キャラの内面の掘り下げという意味では、わりとバラつきがあるような気もする。やはりもっとも深いのは、時の移ろいを意識している元帥夫人だろう。彼女のみが、みずからの過去と、情事の相手である若者と、若者が恋する女性と、みずからのこれからを自身の生の一部として引き受けている。それに比べると、オクタヴィアンもゾフィーも、類型的な役柄以上のキャラではあるものの、元帥夫人ほどの深みはない。オックスは、いわば、肉体的な欲望と自己中心的な(つまり反省的ではない)思考だけの存在であり、権力をちらつかせる脅迫的な存在から、やり込められて笑いものにされる存在に成り下がるという意味では、類型的ではあるけれど、ここには、作曲家の偏愛によってもたらされた何かユニークなものがあるような気もするところ。