うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230104 『ククルス・ドアンの島』をAmazon Primeで視聴

あまり何も考えずに、前情報を入れずに見ていて、最後のクレジットで安彦良和が監督であったことを知り、いろいろと腑に落ちた。

これは戦争時代のなかの厭戦の物語だ。兵士たちによる戦闘が、市井の人々の生活、とくに、戦争の暴力的な力によって親を奪われた子どもたちの生活にどのような影を落としていくのかについての物語。

ジオン軍から脱走し、孤島で子どもたちと自給自足的な生活を送っているらしいククルス・ドアンは、消極的な反戦論者でしかない。彼は自分から仕掛けることはないが、襲撃してきた侵入者にたいする武力行使はためらわない。ジオン軍が島に秘匿したらしい核爆弾のリモートコントロールが作動しないように監視してはいるが、爆弾自体を無効化するところまでは行かない(その筋道を探って入るようだが)。

この映画におけるアムロは、主人公というよりも、物語を進行させるための狂言回しのような役を演じ、最終的には、ドアンを始末しにきたかつての盟友を圧倒的なかたちで打ち負かすデウス・エクス・マキナとして機能するだろう。

映像としての見せ所は、アムロが島に残留することになる戦闘シーンと、ドアンを始末しに来たかつての仲間たちとのモビルスーツ戦であることは間違いないし、とくに後者については、王道的な物語展開が、たしかなカタルシスを与えてくれてはいた。

しかし、安彦良和が描きたかったのは、中盤部分の孤児たちの集団生活の日常ではなかったかという気がする。夜になると、親を亡くした辛い記憶がよみがえってくるのか、泣き叫んでしまう幼い子ども。ヤギの乳搾りをしようとして、暴れたヤギに翻弄されてしまう子どもたち。みんなで畑を耕し、スコールがくれば水をため、一緒に食卓を囲む。そして、物質的にはけっして余裕があるとはいえないこの生活のなかで、ひとりの子の誕生日を祝おうとする。毎日の大変な生活のなかにある、ちょっとしたハレの機会。

だから映画のエンディングが、誕生日の飾りつけの模様を、安彦良和の柔らかな筆タッチのイラストで描き出していくというのは、とてもよくわかる締めくくりだった。戦争の現実とは、英雄的な勝利や輝かしい名誉ではなく、人の生き死にだ。それは兵士ひとりひとり、民間人ひとりひとりのことでもあれば、戦団一つ都市一つといった集団的な出来事でもある。それはどのように美辞麗句で飾ろうと、絶対的に怖ろしいものなのであり、平和な日常を脅かすものにほかならない。

アムロがドアンの機体を海に沈めることで物語は幕を閉じる。それは、アムロによる、戦士ドアンの象徴的な埋葬行為であった。しかし、「あなたの身体に染み付いている戦争の匂いが、戦いを引き寄せるんじゃないでしょうか?」と述べるアムロが、この先、ますます戦争を引き寄せる存在になっていくことを知っているわたしたちは、このセリフに皮肉なものを感じないわけにはいかない。ドアンには、彼を戦争の世界から解き放ってくれるアムロがいた。しかし、アムロの前にそのような存在がこの先現れることはないのだから。