うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230222 『タイタニック』を見る。

見る前は3時間20分は長いだろうと思ったし、1時間ぐらいたったところで「まだあと2時間以上あるのか」と感じたけれど、なんだかんだで最後まで惹きつけられて、否応なく感動させられてしまった。強い映画だ。

とはいえ、物語としてはオーソドックス。身分違いの恋、三角関係、脱出もの。よくあるピースに大予算をつぎ込んで、壮大なレベルでそれらを組み合わせたところに、『タイタニック』の凄さがある。

タイタニック』を見ることは、ギリシャ悲劇を見ることに近いかもしれない。わたしたちは映画が始まる前から、その結末(タイタニック号の沈没)を知っているという意味で。だからこそ、わたしたちはすでにわかっている大きな筋書き(歴史的事実)のなかで、労働者階級のジャックと没落名家のローズの恋愛というフィクションがどのように展開していくのかに、注意を振り向けることができる。

 

タイタニック』には枠となる物語がある。コアになるのは、1912年のタイタニック号の沈没をめぐる物語。その枠となるのは、沈没したタイタニック号からいわくつきのダイヤのネックレスを引き上げようというトレジャーハント。そこに今や100歳近いローズが介入してくる。映画は、沈没船から引き揚げられたスケッチや映像と、年老いたローズの回想の形に導かれるようにして、過去を上映していく。

タイタニック』は過去の物語ではある。しかしその過去は、けっして現在と切り離されたものではなく、タイタニック号の沈没を生き延びて、その後も生き続けてきた人々の現在とつながっている。そのような過去と現在のつながりを強調するように、『タイタニック』は現在と過去、沈没船の引き上げプロジェクトと1912年の豪華客船の生きられた経験を往還するかたちで進んでいく。

 

豪華客船を舞台とする本作は、上流階級の社交(豪華なディナーとティータイム)だけではなく、三等に乗船した庶民たちの生活に加えて、ボイラー室のような肉体労働の現場をも明るみにする。

さらに言えば、タイタニック号がアイルランド労働者によって建造されたことも、それとなくほのめかされているし、ほんの一瞬のことではあるけれど、中国人らしき乗客もスクリーンに映し出されている。

一等客は豪華なホテルと見紛うほどの食堂やサロンやスイートルームでくつろぐ。三等客は狭い部屋の二段ベッドに詰め込まれる。ここでは、陸以上に、経済力が目に見えるかたちで現れる。

しかしながら、金があればそれで上流階級として通用するわけではない。上流階級のなかでは、さまざまな鞘当てが行われており、華やかなティータイムやディナーやパーティーの裏側では、微妙な人間関係が繰り広げられている。

タイタニック号は20世紀初頭のグローバルな資本主義世界の縮図なのだ。

 

とはいえ、物語のすべてが、美男美女という見た目の麗しさから始まっているのではないかという邪推もしたくなるところ。たしかに、ジャックは優れた画才の持ち主ではあるし、ローズは当時であれば最先端の芸術であったモネやピカソの作品を購入する審美眼を備えた人物ではある。ふたりを結び付けた理由のひとつが絵画の才能であることはまちがいないし、船から飛び降りようとしていたローズをジャックが救ったことも大きな理由ではあるけれど、やはり二人の関係の発端はデッキでの一目惚れであり、それ以外はほとんど後付けでしかないだろう。

これはキャメロンの作る物語の特徴なのかもしれないけれど、キャラクターたちの心理的動機は掘り下げられない。二人が恋人関係になるのは、まさに、そうなるからとしか言いようがない。もっともらしい理由をつけてみたところで、それはもっともらしく響くだけであり、本質的なところをつかみそこねてしまう。本質は、二人が恋に落ちるということであって、それ以上でもそれ以下でもない。

その意味で、キャメロンのキャラクターたちはひじょうに生々しいとも言えるし(わたしたちにしたところで、なぜ自分があれこれのことをするのか、余すところなく説明できるわけではないだろう)、フィクションとしては説明不足とも言える(フィクションの特権とは、あらゆる事柄を創造主である作者が思うままに説明してよいところにある)。

ローズは政略結婚をさせられることに絶望して身投げしようとするが、彼女の家がそのような状況に追い込まれた理由は詳述されない。彼女に政略結婚を強いる母親の人柄も、わかるようでよくわからない。たしかにここには、フェミニズム的なものが、女性の自由を後押しするようなメッセージが込められてはいるのだけれど、それはどこか中途半端に終わっている気もする。

 

たしかに、アメリカンドリーム的な物語ではある。ジャックはウィスコンシンに生まれ、両親を亡くして国外に出て、再び帰国しようとする。ローズはイギリスの名家の出だが、没落する家族は、アメリカの成金的な新興階級との婚姻によってどうにか生き延びようとする。そして、ローズは、自由の女神に迎えられて、家族の桎梏から解き放たれて、女優として身を成すだろう。彼女こそがアメリカンドリームの体現者である。

しかし、もちろん時代的な制約を踏まえてのことだとは思うのだけれど、沈没して凍えるような冷たさの海をただようなか、ジャックがローズに「きみはたくさん子どもを産んで」と励ましの約束を迫るとき、ジャックもローズも、女性の解放とは、結婚「の」自由(誰と結婚するかの自由)であると思い込んでいる節がある。結婚「からの」自由(結婚するかしないかを自ら決める自由)は想定されていない。

ローズの思い出の写真から、わたしたちは、彼女が、ジャックがローズに語ったことをジャック亡き後に成し遂げたことを知る。しかしそれは裏を返せば、ローズの生涯が、ジャックの言葉に導かれていたことの証でもある。ローズは生まれ育った家族から離脱することで、自分の人生を自己決定する自由を獲得したけれども、その自由を行使することが彼女が成し遂げたのは、ジャックが彼女に語って聞かせた自由の実践だったのであり、その意味では、彼女の庇護者が、家族からジャックに移っただけと言えなくもない。

 

タイタニック』の魅力は、ジャックとローズの恋愛物語というよりも、脇役たちの生きざまかもしれない。タイタニック号が氷山に衝突し、沈没が避けられないとわかったとき、そのような極限状態でどのような行動をとるのかに、各人の人間性が露呈する。

責任を取って船と運命を共にする者もいれば、上流階級の矜持を見せて盛装して船と心中する者もいる。子どもたちが苦しまないように寝かしつけて死を覚悟する者もいれば、生き残ろうとして他人を押しのけて醜くあがく者もいる。暴動に発展しそうになる人々を押しとどめるために発砲して殺人を犯してしまうクルーがいるし、自らが犯した罪を償うように自殺する者がいる。

沈没してく船で、多くの人々が、あっけなく死んでいく。何人も、何人も。数えられないほどに。

おそらくこの映画のなかでもっとも矛盾に充ちた行動を見せるのは、新興成金階級であるローズの婚約者だ。彼はどうにかしてローズをジャックから引きはがそうと策略をめぐらし、ジャックがダイアモンドのネックレスを盗んだという濡れ衣を着せて、沈没する船の一室に拘束して見殺しにしようとする。その一方で、彼はビジネスマンとして、クルーにディールを持ち掛け、金の力で救命ボートのスペースを買い取ろうとする。ジャックと共同戦線を張り、ローズを逃そうとするが、ジャックを置いていくことができないローズが船に舞い戻ると、嫉妬を爆発させて二人を銃殺しようとする。かと思うと、両親とはぐれたのか、ひとりぼっちで泣いている子どもを見捨てられないという人間味を見せるが、次の瞬間、彼は子どもを出しにして救命ボートに乗り込む(老いたローズの回想によれば、彼は生き延び、別の女性と結婚するも、大恐慌で資産を失い、自ら命を絶ったという)。

 

キャメロンは、粛々と、凍える海に投げ出された人々を助けに向かった救命ボートが一艘しかなかったことを告げる。ゴシップ好きでまわりから煙たがられていたご婦人のみが、なぜ助けにいかないのかと非難の声を上げるが、その抗議は、もし助けに行ったらボートに群がってくる漂流者のせいでわたしたちの命が危うくなるというクルーの脅迫的な警告に圧殺されるだろう。自分の命と他人の命を天秤にかけたとき、我が身可愛さが先に立つ――そのような冷酷なメッセージがここでは前面に押し出される。少なくとも、それこそが、歴史的真実にほかならなかったのである。

 

もともと3Dを前提として撮影したのではない(と思うのだが、実際はどうなのだろう)フィルムを3Dとして上映することにどのような技術的ハードルがあるのかはわからないけれど、ところどころで不自然な部分はあった。

3Dと言っても、すべてが3D的なのではなく、奥行きのあるシーンで奥行きが強調されるという感じだった。だから、デッキから海面を見下ろすとき、そこでは海面からの高さがかなりリアルに感じられた。ラスト三分の一のタイタニック号の沈没において、3Dの効果は絶大なものがあった。

その一方で、画面両端や下部の奥行きが強調されすぎていたきらいはある。こちらはあまりに奥行きがありすぎて、逆不自然だった。

 

タイタニック』は相反するようなメッセージを発している。一方において、社会的拘束(階級差)を超えた愛が称えられるだろう。女性の自由が待ち望まれるだろう。しかし、他方では、エゴイズムが、極限状態における人間の醜さが容赦なく描き出される。おそらくそのような万華鏡のような人間性を余すところスクリーンに映し出すために、これだけのスケールと予算が費やされたのではないかという気もする。

 

タイタニック』には2つのエンディングがある。ひとつは、老いたローズが、偶然の成り行きで持ち出すことになったダイヤのネックレスを、自らの決断として、海に沈めるシーン。それはおそらく、彼女が、元婚約者の財産に頼ることなく、彼女一人の力でアメリカン・ドリームを成し遂げたことの証明であるとともに、ジャックにたいする鎮魂の行為だったように思う。もうひとつは、在りし日のタイタニック号のなかで、あらゆる人々が祝福するなかで、ローズとジャックが結ばれるシーン。

それはまさに夢のような、美しい情景ではあった。しかし、そのような情景が回想的な想像としてしか提示できないところに、20世紀初頭のアメリカン・ドリームの限界が露呈されていた。それから、女性の幸福を、愛する男性と、社会に祝福されたかたちで結ばれることとして提示することは、20世紀後半のアメリカ社会の本源的な保守性をさらけ出していたと言わなければならないだろう。

 

2週間限定上映で、かつ、翌日が祝日ということもあってか、300名弱が入るスペースは3分の2近く埋まっていたのではないだろうか。チケット売り場が長蛇の列になっていた。感動的なシーンでは、思わず涙を流しているのだろうかというような雰囲気がただよっていた。他人がそばにいることを感じながら、他人が映画にたいして反応しているのを感じながら、鑑賞するというのは、久しく体験していなかったことに気づいた。