うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。「身の丈」。

特任講師観察記断章。「身の丈」発言についていろいろ考えてしまう。文科相がそれを言うのかという批判はもっともだけれど、安倍政権がネオリベ的な自己責任論――不平等に配られたカードによる平等なゲーム――を前提にしているのだから、政権内部にいる大臣がその路線に沿った発言をするのは当然だろう。

教育機会の差別を考えるなら、地方と都会、それぞれの地における私立と公立のバランスやランキングというインフラにおける絶対的なギャップを考えないわけにはいかない。自分のように経済的には恵まれた層でさえ、大学に行ったとき、地方公立と東京私立のあいだに絶望的なまでの圧倒的な差を感じたけれど、それはまちがいなく経済的ではなく地理的なものだった。

現在の教育機会の不均衡の問題は、戦後の都市集中型の社会設計の必然的な帰結であり、それは対症療法的なパッチワーク(貧困層や地方民への補助金)でどうにかなるものではないことを思うと、「いまあるシステムに適応しろ」というコメントは、現状をひとまず受け入れるという前提を受け入れるなら、ひとつの最適解ですらあるのかもしれない。もっと平等主義的な社会観に立てばまちがいなく改善されるべき「問題」と見なされるものを、すでにどうしようもなく定まっている以上それを変えようというのは不合理で非効率的だからもう「前提条件」と見なして片付けてしまおうというのは、見せかけだけのフェアゲームを掲げる輩がいかにも言いそうなことだ。

こうした構造的歪みを踏まえたうえで思うのは、アメリカとは違って日本ではもう教育が「階級上昇」という「大きな物語」として機能してないのではないか、という点だ。教育はせいぜい階級脱落を避けるためのものであり、ディフェンシヴで、パッシヴで、ネガティヴなものになってしまっているのではないか。そうした社会的上下運動に加えて、教育には「脱出」や「逸脱」という横道や逸れたり斜めに飛び出したりする効果もあったと思うけれど、自分が教えている学生たちの多数派から、そういう熱量を感じることは少ない。後ろ向きのニュアンスが基調をなしているというか、そもそも方向感覚それ自体が完全に失われており、迷子になっていることすら知ることができない迷子状態にあるような気すらする。

「身の丈」発言はつまり、「現在の階級に留まれ、身の程を知れ」ということだろう。「夢を見るな、上を見るな、いまいるところにいつづけろ」というメッセージだろう。虐められているものは虐められているままに、虐げられているものは虐げられているままに、という支配関係の恒常化だ。そこで想定されているのは、支配関係の内部にいることを甘受するのであれば、多少は飴も褒美もくれてやってもいいが、上下関係それ自体を壊そうというのは、そう妄想することすら許さないという、分断された世界観だ。安倍政権の長期化の理由はいろいろあるだろうけれど、ひとつは、世の大勢がいまここにある現実にたいする「しかないさ、しょうがないじゃないか」という消極的承認があるからではないかと思っている身からすると、「身の丈」発言にラディカルに立ち向かうには、もっと希望に充ちた現実と未来のイメージのようなものがいるのではないかと思う。世界「観」を変える必要がある。

というようなことを、自分たちが正当に有している権利を行使することさえ、遠慮と配慮を骨の髄まで内面化した自己卑下意識によって自らに禁じている学生たちの姿を見ながら、つらつらと考えてしまった。さて、どこから始めようか。