うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

パーソナルな記録と告白の問題性:キャシー・ジェイ『The Red Pill』(2016)

20190512@常葉大学静岡草薙キャンパス

向こう側がどう感じているか

コンセプトは決して悪くない。「向こう側」がどのように感じているか、真摯に知ろうとすること、それは重要なことだ。フェミニズムによって女性の社会的権利は拡大し、男女のあいだの不平等はある程度は是正されてきた。このシナリオを、女の物語としてではなく、男の物語として語り直すこと、それがキャシー・ジェイのパーソナルなドキュメンタリー『The Red Pill』の基本的なコンセプトである。

theredpillmovie.com

ここでジェイが対象とするのは、男性権利活動家Men's Rights Activists(MRA)だ。MRAにたいするインタビューや取材をつうじて、フェミニストを自称するジェイは、フェミニズムにとっての向こう側である男がどのように感じているのかを、真摯に探っていこうとする。たとえ向こう側が感じていることが、こちら側からすると受け入れがたいことであるとしても、である。

無知にもとづく中傷合戦は不毛である。喧嘩腰でのぞめば、向こう側はますます態度を硬化させるだけだ。無理解は偏見を助長させるし、事実ではなく偏見にもとづく攻撃は、えてして、実在の敵ではなく、自らが作り上げた仮想のモンスターに向けられがちである。それに、こちら側が向こう側の感じ方を否定してみたところで、向こう側がそのように感じているという事実は消えてなくなることはない。もしここに何らかの融和の可能性があるとしたら、向こう側の感じ方がいかに受け入れがたいものであるとしても、まずはその実態を把握し、理解することが先決である。判断を下すのはそのあとでも遅くない。

  

「どの」フェミニズム

ジェイはできるだけフラットな視線から、男側と女側の主張を観察しようとするが、それはどうしようもなくパーソナルな試みになるだろう。ドキュメンタリー仕立てにはなっているが、同時に、これは彼女の映像日記でもあるし、その点は彼女もかなり自覚的である。事実、何度か1人称的な語りが入るし、それは彼女自身のフェミニズム的な信念の揺らぎの告白シーンでもある。

ジェイはもともと女優志望だったが、ホラー映画で早々に殺される「頭の悪いブロンドの女の子」役ばかり与えられることに嫌気がさし、フェミニズム的な方向に向かい、自主製作的なドキュメンタリー作家のほうへキャリアの舵を切ったのだという。

MRAにたいする彼女の当初の関心は、直感的な反感と、反感からくる興味本位の好奇心だったように見受けられるが、取材を通じて、彼女はMRAの主張にますます惹きつけられていく。そして最後には、「わたしはフェミニストではなくなった」と述べることになる。

フェミニストフェミニズムから卒業する、そういう筋書きだ。

 

それはキャシー・ジェイ本人の物語としては、おそらく真実の物語なのだろう。しかし、それはあくまで彼女個人のパーソナルの物語でしかない。

彼女自身がフェミニズムを代表しているかのように見えるところがあるが、彼女の言うフェミニズムが「どの」フェミニズムなのかは最後までまったく明らかでない。端的に言えば、彼女のフェミニズムはあまりに「白い White」――60年代の第二波フェミニズムがその後の世代から批判された理由であり、そこから、さまざまなフェミニズムが派生し、Women’s StudiesやGender StudiesやQueer Studiesやのような、隣接的でありながら力点の置き所の異なる学問領域が誕生していくことになる――のだが、このドキュメンタリーを見るかぎり、ジェイはそのあたりの複数的なフェミニズムFeminismsの存在にほとんど気がついていないように見える。

 

パーソナルなドキュメンタリー

これはもしかすると、MRAのほうについても同様かもしれない。彼女のMRAのプレゼンテーションがあまりにMRAに好意的すぎるとか、MRAに充分に批判的ではないというのではない。もちろんそういう側面もあるし、ドキュメンタリー冒頭で言及された女性嫌悪から女叩き的なスペクトラムが、映像が進むにつれてほとんど取り上げられなくなるという問題もある。積極的な嘘ではないが、消極的な取り上げなさによるバイアスである。

しかし、おそらくもっとも問題なのは――そしてそこをきちんと掘り下げていないように見えるのは――MRAの多面性のようなものが置き去りにされている点に加えて、このドキュメンタリーで取り上げられているMRAの代表的な論者であるらしい人々が、どういう意味で、どのくらい代表的なのかが、最後まで明らかにならない点だろう。

ドキュメンタリー自体が意図的に歪められているというのではない。有限の尺のなかでやる以上、対象が限定的になるのは仕方のないことである。しかし、そうした対象を、もっと大きな見取り図のなかに位置づけるという映像作家の仕事が、ここではなおざりになっているように感じられるのだ。だから、結局のところ、これはMRAについての(客観的な)ドキュメンタリーというよりは、キャシー・ジェイという一個人が体験したMRAというパーソナルな記録になってしまっているきらいがある。

 

「どっちもどっち」論の落とし穴

そうした映像構成的な問題に加えて、ジェイの基本的な考え方がどうも問題含みであるように思われる。MRAの議論を敷衍しながら進められる彼女のドキュメンタリーは、つまるところ、どっちもどっち論の落とし穴にはまってしまっているように思うのだ。

女と同じように、男も苦しんでいる。苦しんでいるのは女だけでなく、男も苦しんでいる。

それは一見したところ、客観的な立場に見えなくもないのだが、苦しみが数量化不可能である以上、男と女の苦しみの比較は、結局のところ、ひとりひとりが抱く主観的なものにすぎない。なるほど、女は男「よりも」苦しんでいる、だとか、男は女「よりも」苦しんでいる、よりは、男も女と「同じくらい」苦しんでいる、のほうが、健全な見方かもしれないが、そうした疑似客観性は、これまでの社会が男性優位に築かれてきたという圧倒的な歴史的堆積を、現在という時点から抽象化することにほかならないだろう。

ジェイは、客観的であろうとするあまり、逆に主観的になってしまっているように思われる。 「どっちもどっち」と言う人は、おそらく、ニュートラルな調停者として振る舞おうとしているのだろうが、それは対立するふたつのサイドにたいして公平であろうという気持ち以上に、自分は公平であるという自己満悦的な正しさに陶酔することでもある。ジェイはまさにそうした状況に陥っているように思われる。

 

男対女なのか、男と女対家父長的社会なのか

ジェイが見そこなっているのは、問題の核心にあるのは、男と女の対立ではないという点ではないか。この意味で、ジェイが取り上げた題材がそもそも上手くなかったのだと言えるかもしれない。『The Red Pill』の特権的な題材であるDVや離婚やリプロダクティヴ・ライツの問題は、つまるところ夫婦の問題、カップルの問題、既婚者の問題である。これらの問題に焦点をあてることで、ジェイは独身者のMRAの問題――それから、鬱屈したモテない男たちが抱えているのかもしれないミソジニー、女にたいする蔑視や見下しの問題――をスルーしてしまっている。

しかし、『男性権力の神話 The Myth of Male Power)』の著者ワレン・ファレルがこの映像のなかで語っていることを敷衍するなら、問題の核心は、性のあいだの戦争ではなく、男を使い捨ての労働力 disposable laborと見なす社会システムにあると言うべきではないのか。なるほど、戦場や仕事場で死亡する大多数は男であるが、それは女によって男が虐げられているからではなく、現代の資本主義社会においては、男が金を稼いで家計を支えるという家計モデルが依然としてまかりとおっているからであり、そこから稼ぎ手としての男に大きなプレッシャーがかかっているからである。

なるほど、もしかすると、こうした性的分業 sexual division of laborは、人類史的/生物学的な必然という面があったのかもしれない。解剖学的に言えば、男のほうが大きく強い体を持ち、女だけが子どもを宿す体を持っている。しかし、こうした生物的与件を、恒常的な社会制度‐システムへと固定化させた元凶は、人類社会に求められるべきだし、おそらくその傾向は、近代資本主義によって加速するばかりであっただろう。

それは、男性優位の家父長制を強化するものであったわけだが、ここで注意すべきは、家父長的な構造のなかで「あらゆる」男が「つねに」その構造的な特権の恩恵にあずかってきたわけではない、ということだ。なるほど、男性優位の世界観において、女いびりは、社会階級の上から下まで、貴族から労働者まで、あらゆるところで見られる現象だったかもしれないし、それを是正しようとしたフェミニズムはまったく正しい。しかし、それは世界を一般的なところから抽象的に眺めることであって、具体的に個別的に世界に寄り添うことではない。もし近くによってみれば、男に虐げられる女たちだけではなく、虐げられる男の存在もまた見えてくるはずだからだ。

そして、そのように虐げられている男たちが連帯したい相手は、決して、彼らを虐げている男たちではないはずだ。家父長的な制度のなかで特権を享受している男たち、そうした男たちに従属することを交換条件に特権のおこぼれを享受している女たちではないはずだ。虐げられている男たちの連帯相手、それは、家父長制度のべつの犠牲者である虐げられている女たちのはずだ。

もしMRAが、男を使い捨てられる労働力に還元する非人間的な社会にたいして反旗を翻すことであるとすれば、それは、女一般にたいする全面戦争となってはならない。なるほど、女にたいする闘いという側面は確かにあるかもしれないが、それは、既存の社会制度を味方につけて男を食い物にする女たちへの闘いであって、元凶はあくまで歴史的な社会構造である。女そのものではない。

しかし、ジェイのドキュメンタリーでは、その部分がどうもぼやけている。

 

女対男

それは彼女が選んだ題材から必然的に導かれてしまった帰結である。DVや離婚や親権の問題は、どうしても、男と女という当事者ふたりの対決としてしか表象することができないし、そこでは明確な勝ち負けが現れてしまう。とくに親権争いについて言えば、父が取るか母が取るかは、痛ましいまでに二元論的闘いである。

そして、現行制度のなかでは、母が優位にある。その制度をどうにか公平にしていこうというのは、係争の只中にある男にとってみれば、正当な要求に思われるだろうし、実際、ジェイはそのような提示をする。

しかし、そこから少し距離をとれば、雑誌『Ms.』の編集長が述べるように、「いまの状況は、これまで男一般が享受した特権が解除されていっているだけだ、女がこれまで置かれてきた「マイナス」の状況がどうにか「ゼロ」になってきただけで、「プラス」になったとは到底言えない、女が優遇されているということはありえない」というまったく正当な一般論が成立する。

ジェイは(というか、わたしたちは、と言うべきだろうか)、こうした一般論と個別論とを、混同しがちであるように思われる。一般論は一般論としてはまったく真実であるが、一般論では個別的状況は救われない。しかし個別的状況から、社会全体に敷衍されるような結論を引き出すことは拙速である。拙速から引き出されたものは、決して万能の解決策たりえない。

親権裁判に敗れ、失意のうちに自殺した夫の話を聞かされるのは、痛ましい経験であるし、そこでわたしたちは、ほとんど否応なく、自殺した夫に感情移入することを強いられる。その感情移入は間違っていない。しかし、個人に共感することと、そうした個人を作り出したシステムに賛成/反対することは、必ずしも連続的なものではない。個別論と一般論は区別されるべきであるし、制度運用論と制度設計論は分けて考えるべき案件であるはずだ。

 

ジェイのドキュメンタリーは、個別事例のなかで苦しむ男たちをクローズアップした結果、虐げられる男たちへの共感が前面に出すぎたきらいがある。虐げられている男たちは自業自得であり、憐れまれるに値しないと言いたいわけではない。彼らは共感されてしかるべきだと思う。しかし、彼らをそのような状況に突き落とした具体的な妻たちに怒りを募らせることと、妻たちにそのような権利を付与したフェミニズム的な是正法を糾弾することは、果たして同じことだろうか。

 

平等とはどういうことか

おそらくジェイのドキュメンタリーが捉えそこなっているのは、平等とは何のことなのか、という根源的な問いではないだろうか。

 

現行のリプロダクティヴ・ライツをチャート化しつつ、ジェイは驚くをこめて、いかにパートナーの男に決定権がないかを力説する。彼女によれば、子どもを産むか産まないかの最終的な決定権はほとんどつねに女の側にあり、それは不平等だと言う。

しかし、本当にそうだろうか。本当に、あらゆるステージにおいて、男と女のあいだに全く同量の権利が与えられるべきなのか。『Ms.』の編集長は、男女の権利が不平等なのではなく、リプロダクティヴ・ライツにおいては、権利の行使のステージが男女で異なるのだ、と示唆する。つまり男は性交の時点において、避妊するかしないかという決定権を持つのであり、女は妊娠後において子をどうするのかについての決定権を持つのだ、という。それは、自らの体にたいする権利がほとんど否定され、男によって翻弄されてきた歴史的経緯を持つ女たちにしてみれば、まったく正当な要求であったし、だからこそ第2波フェミニズムにおいてリプロダクティヴ・ヘルスが主要な争点のひとつであったのではなかったか。

 

歴史健忘症、または、わたしたちはなぜいまいるところにいるのかという意識の不在

このドキュメンタリーにただよっているのは、ある種の歴史健忘症であるように思われる。なるほど、現行制度を、過去の経緯をまったく考えることなく、ある特定の視点から眺めれば、それは男にたいして不正なシステムに見えるかもしれない。しかし、それした非歴史的な見方は、現在のシステムのなかで苦しんでいる「特定の男」を「男一般」とすり替えることであるし、そうした男たちを苦しめている「特定の女」を「女一般」とすり替えることであるし、そうした苦痛や搾取の構造を可能ならしめている権力関係や経済関係を、所与のパラメーターとして受け入れることになってしまう。

平等であるということは、一方において、過去からの歪みを是正することである。過去の歪みを正そうという試みが、現在のなかで別の歪みを生み出すこともあるだろう。その典型例が、親権争いにおける女の優遇であったり、DV問題における女から男への暴力の軽視であったりするわけだ。しかし、歪みを正そうとすることで別の歪みが生まれるからといって、今まで存在してきた歪みを放置していいということにはならない。そのように言い放つ人間は、今まで苦しんできた者たちに「これから先も苦しみ続けろ」と言っているに等しいし、その発言の根底にあるのは、正義を求める心ではなく、「自分が苦しみたくない、自分が虐げられる立場に置かれたくない」という身勝手な怯えである。

そうした怯えは糾弾されるべきものでもないだろう。身勝手であること、わが身がかわいいことを批判する者には、「おまえはマゾヒスティックな殉教者だ」と言い返してやっていいのかもしれない。しかし、「自分が犠牲者になりたくないから、誰かに犠牲者役をやらせておこう」というのは、椅子取りゲーム的な発想である。そして、そうした発想で社会生活を営むかぎり、つまり、自分の問題にならないかぎりは無視を決め込むという態度を貫いておいて、自分に火の粉がかかってきた瞬間に手のひら返しをして、「これは不当だ」と騒ぎ立てるのであれば、二枚舌の自己中心主義者という罵倒を免れえないだろう。

 

MRAの革命的な潜在性

しかし、MRAがそのように倫理的にいかがわしいものであるのかどうか。

正直に言えば、このドキュメンタリーからではそこがよくわからない。ワレンの議論を字義通りに受け取るなら、そしてそこにマルクス主義的な解釈を加えるなら、彼が主張しているのは、男を使い捨ての労働力する一方で、稼ぎ手としての地位を与えることで男に権力を付与するという経済的権力構造そのものを変革する必要があるということではないだろうか。それはかなりベタな意味での経済主義かもしれないけれど、方向性としてはきわめてオーソドックスな左翼的主張であるようにも思う。

経済的な自由を獲得するのだ、そうすれば、個人は社会的要請から解放され、自由な個人として生きることができる。自活できる経済力という主題はフェミニズムにとって中心的な主題であり続けている。たとえばヴァージニア・ウルフは『私だけの部屋』のなかで、作家が自由に書くためには「自分だけの部屋」と生活に窮しないだけの金銭的余裕がいるのだと力説しているし、20世紀初頭にアメリカで活躍したロシア系移民アナキストであるエマ・ゴールドマンは、「金銭的安心のために結婚するのは、自らの肉体も精神も売り渡すことである」と結婚制度を痛烈に批判している。

しかし、歴史に皮肉と言えそうなのは、20世紀後半において経済的自立がある程度の階級の男女にまで拡大された結果、中流以上においては金銭的自由によって社会的な自由も事実上確立されてきたのかもしれない一方で、経済成長の恩恵にあずかるどころか、不況のあおりを受けてますます貧困層に転落していくばかりの層からしてみれば、経済的不自由という現実にたいして留飲を下げさせてくれる社会的不平等が、唯一の拠り所となってしまったのかもしれない。金がなくても、女を叩くことはできる。仕事のなさを、移民のせいにすることはできる。

いや、こうした揺り戻しを、貧困層にのみ帰するのは、経済的は中流であるが、女の状況がマイナスからゼロになって男と並ぶようになってきたことを苦々しく思っているある種の男たち、女たちがマイナスの立場に置かれていないがゆえにかつての特権が行使できなくなったことを憂うある種の男たちの存在を免罪することにしかならないし、もしかすると、元凶は後者にあるのかもしれないとすら思う。

ここに男たちのリアルな喪失感があることは認めなければならない。なるほど、それは然るべくして廃絶された「特権」である。女をレイプする権利を男が持つことのどこに正義があるというのか。だが、どれほど不当なものであれ、これまで自明だと思ってきたものを奪われたという感覚を抱くことを否定することはできない。その感覚を正当化すべきではないが、その感覚の存在までをも否定することは、男の尊厳を崩壊させることにつながってしまう。

男の尊厳などどうでもいい、女の尊厳というのもちがう、「人間」の尊厳なのだ、というのは、おそらく倫理的に進むべき道だとは思うのだが、現代という過渡期的な時代――男のプラスがゼロに向かい、女のマイナスがゼロに向かうという緩やかなプロセスのなかで、ときに急激なブレが起こり、ある特定分野において女にプラスになったりマイナスに舞い戻ったり、また別の箇所において男がマイナスになったりプラスに転じたりするようなことがある時代――においては、まだ時期尚早というべきところかもしれない。

 

そのようなことを考えさせてくれる映像ではあったが、ジェイの結論自体――「わたしはもうフェミニストではない」――はまったく解決策ではありえない。彼女を、「男を擁護する女の敵」とレッテル貼りするのは、あきらかに間違っている。彼女は少なくとも「向こう側」を理解しようという真摯な試みを成し遂げたし、たとえそのなかで間違ったウサギの穴に入り込み、奇妙な世界に嵌まり込んでしまったとしても、彼女が映像をとおして描き出したパースペクティヴは、ひとつの事例としては、きわめて有益なものである。

わたしたちは、それを、あくまでひとつの考える素材として受け取らなければならない。必ずしも彼女と別のポジションをとるべきだと言いたいわけではないけれど、彼女の言うことを無批判に真に受けるのは、自らの批判力の無さをさらけ出す行為に等しい。

 

MRAの潜在的に革命的な可能性、それは、女優位になりかかっているのだという社会を再び男優位に引き戻そうという後ろ向きの方向性ではありえない。理想は過去にはない。理想がありえるとしたら、それは、これから来るべき世界にしかないだろう。そしてそこでは、男と女が万人の万人にたいする闘争を繰り広げるのでもなければ、男か女がどちらの性を支配するという性的闘争が繰り返されるのでもない。そこでは、人の人にたいする支配が、人の人にたいする支配を正当化し固定化する制度や法律が解きほぐされ、そして、負わされたくもない責任を強いられることもなければ、使いたくもない暴力を行使することも強いられることもなく、強制や強要ではなく、協働や協力を主要な動因とする社会構造が機能するだろう。暴力や支配がなくなるわけではないが、それらは副次的なものに格下げされるだろう。

不幸合戦は止むだろう。男のほうが女より苦しんでいるか、女のほうが男より苦しんでいるかというような、不毛な一般論は無意味になるはずだ。男一般は存在しないし、女一般も存在しない。それはあらゆるジェンダー・カテゴリーについても同様である。セックス/ジェンダーは再生産のために依然として重要なファクターであり続けるかもしれないが――しかし、もし人工的に生命を誕生させる技術が確立されたとしたら、それすら必要でなくなるかもしれないではないか――、普遍的苦痛を基盤にすえたショーペンハウアー的な東洋風の厭世観ではなく、小さくありきたりかもしれないけれども深いところまで染みわたるような長い歓びを基調にした、多元的で複数的な混沌でありながら豊饒でもある、生成変化するものたちの世界がもしかしたら出現するのではないだろうか。