うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

恋愛至上主義の最終的な肯定:「結婚できない男」(2006)

アマゾンプライムに入っていた「結婚できない男」をだらだらと見た。たしかに面白い。多少の中ダレはあるものの、シーズン終わりまで見させるだけの牽引力はある。しかし、見た後にあまり何も残らないのは、結局すべてが恋愛に還元されており、ありきたりの結論に着地しているからではないか。建前では人嫌い、でも本音はちがう、そんな本音論ですべてを解決しようとしているからではないか。「すべては強情さのせいなんだ、表面がひねくれてるだけなんだ、でも本心では恋愛はしたがっている」という恋愛至上主義が結局肯定されているだけだからではないか。

 

主人公である建築家の桑野信介は、いまなら「アスペ」などと揶揄されて片付けられてしまうかもしれないが、その見方はあまりに一面的だ。「天邪鬼」というような慣用的言い回しを当てはめたほうが妥当だろう。実際、ほかの登場人物たちが桑野を評するさいに使われるのは、「偏屈」とか「頑固」というような言葉だったと思う。屁理屈屋ではあるが、仕事はできる男。空気を読まずに、蘊蓄をひけらかしてしまう男。理性的な計算というよりは、衝動に駆られるかたちで、皮肉や逆張りをしてしまう男。相手の心がまったくわからないわけではないが、他人の気持ちを配慮することができない男。

ドラマのタイトルは結婚できない「男」だが、実のところ、結婚できない「女」、さらにいえば、「女たち」もまた、このドラマの主役たちである。桑野を診察する女医の早坂夏美、桑野のビジネスパートナーの沢崎摩耶。しかし、桑野が最終的に結婚はしたくないが恋愛はしてもいいというような方向になんとなく傾くのにたいして、女医のほうはそれをはっきりと認め、はっきりと言葉に表すようになる。お見合いを断りながら、「やっぱり恋愛がしたいんだと思う」と口にする。これをジェンダー・バイアスと言い切るのは少々言葉がすぎるかもしれない。けれども、恋愛したいというキーメッセージを桑野ではなく早坂に言わせるという物語構成は、意図的な仕込みなのかはともかく、「女は素直になる(べきだ)」という意見を強化する効果を生んでいる。

 

2006年という文脈からすると、たしかにずいぶん先進的な部分があったのかもしれない。40になる独身女が結婚せずにキャリアを追求する、マンションを買うことを考える、先を見越して資産運用をやっている。老いつつある母は、娘夫婦と同居するのではなく、自ら介護施設に入ることを考えている。しかしそれらはすべてあくまでサイドストーリーだし、介護施設の件は結局うやむやで終わってしまう。社会の大勢とは別の生き方は示されるものの、ほのめかされるにすぎない。

 

桑野のこだわりが意外と浅いものであるのが、ある意味とても興味深い。こだわりポイントはいろいろあるが、なんでもかんでもすべてにこだわっているわけではない。こだわりというよりは、固執といったほうがよさそうなものも少なくない。

マンションの部屋はいかにも建築家らしくモダンなたたずまいで、趣味の良い家具が控えめに置かれている。桑野の建築の代名詞であるオープンキッチンは、当然ながら、美しく整理整頓されている。ステーキを焼くときのフォークにしても、食事のさいにワインやミネラルウォーターを注ぐグラスにしても、ナプキンにしても、こだわりの品ではあるだろう。そうめんを食べるときには、チューブではないおろし生姜が欲しい人間で、たとえすでに茹で始めてしまったとしても、生姜がないことに気づいたらわざわざスーパーに買いに行かずには済ませられない性分である。

しかしその反面、毎日コンビニで同じ牛乳と青汁を大量に買いこみ、同じものを食べ続ける。レンタルビデオ屋で新作を借り、髪型にも洋服にも頓着しない(かなりの洋服持ちではあるけれど)。

桑野は「意識高い系」とは言いがたい。世間の流行には頓着しないし、かといって、クオリティ至上主義でもない(もしそうなら、コンビニで手に入る程度の牛乳や青汁に満足することはないだろう)。すべてはマイルールの世界なのだ。こだわりは、対象にたいするものではなく、あくまで自分にたいするものであり、自己満足こそがすべての価値判断の基準となる。

 

この微妙ないびつさは、桑野というキャラクターを不自然にしているだろうか。そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。しかし、ここで考えてみるべきは、ドラマが作り出そうとする人物造形は、本物そのものなのか、それとも本物「らしい」ものなのか、という点かもしれない。

ここで表現されているのは「それらしさ」のほうだ。こだわりの男「らしい」ライフスタイルであって、こだわりの男のライフスタイル「そのもの」ではない。というよりも、後者はあまりにもマニアックな世界であり、それをドラマで表現するほどの資金は確保できないだろうし、究極的に言えば、大衆娯楽であるドラマの視聴者にとって、そのような差異はあまり意味をなさないだろう。 

日本のドラマが大衆的なメディアである以上、そうならざるをえない。掘り下げすぎれば支持を得られず、視聴率は上がらない。ここで重要なのは、真実ではなく真実らしさ、それらしさであり、要するに、大衆の通念に呼応するものこそが求められているのだ。

だから日本のドラマで名を遺すものとは、そうした通念を揺さぶるものというよりは、新しい別の通念を作り上げるものではないかという気がする。ただし、通念である以上、それは単なるステレオタイプにすぎず、ステレオタイプである以上、唯一無二ではなく、ありえそうな属性の寄せ集めになる。

結婚できない男』の奇妙な薄さは、キャラクターたちが属性の足し算でできているからではないだろうか。独身、建築家、蘊蓄、偏屈、有能、または独身、医者、仕事熱心、自立、皮肉、というように。

 

世界の狭さがある。結局は箱庭の物語だ。しかし、この狭さは、日本社会の縮図としか言いようがない。職場や家庭を中心に回る狭い世界を広げる可能性を提供することこそ、テレビのようなマスメディアの役割なのかもしれないが、そのテレビがこのドラマのなかでまったくそのような用を成していない。自嘲的なメタ・コメントだ。

欠陥住宅をめぐって夜9時枠の視聴率10パーセントを上回る報道番組のインタビューを受けた桑野だが、放映では無残なまでに彼の発言がカットされていた。顧客の希望をかなえようとするが、それと同時に、キッチンを中心とした家づくりという自分の理念を伝えようとする、という発言の後半部分、桑野の建築家としてのモットーである部分がカットされ、番組構成のために都合のよい前者の発言だけが切り取られていた。

テレビは身勝手に桑野を偽る。しかしその一方で、桑野を個人的に知っている人はあそこで何がカットされていたかわかっているという慰めが、桑野のまわりでは口にされるのだけれど、これは結局のところ、小さな対面的コミュニティの肯定で終わってしまっているように思われる。マスコミによる言説の独占と虚偽の生産をめぐるくだりだけは、現代のデフォルトであるWeb 2.0的な双方向性――一般人でもSNSで情報を拡散させられる――からすると、メディアや情報をめぐる世相の変化を感じる部分だろう。

 

桑野と早坂の結婚というハッピーエンドで終わらないのが、テレビドラマに可能な精一杯の反抗なのかもしれないけれど、それは、カタルシスも批判力もない、中途半端な終わり方という気がする。「スタートに戻ってやり直し」的な終わり方をするドタバタ劇もたしかにジャンルとして確立されているし、それはそれでありだ。しかし、アラフォー男女の成長物語――恋愛はしたいという自分の気持ちに気がつくこと、そんな気持ちに素直になることを学ぶこと――であったものを、桑野のちゃぶ台返しで終わらせること――あなたのことは好きなのかもしれないけれど、やはり結婚はできない――は、右肩上がりの物語のアーチを自ら崩すことでしかない。ここはいまひとつな感じがする。

とはいえ、ふたりが結婚して終わればめでたしめでたしなのかというと、そうでもないだろう。何のための結婚なのかが、つねにあいまいなままだからだ。恋愛がしたいのは自分の気持ちかもしれないが、結婚したいというのは、どこからくる思いなのか。

父や母は孫の顔がと言う。しかしそれにしたところで、家族の存続だとか血筋の継続というような昭和的家意識の産物ではない。まわりが結婚しているからという同調意識でもないらしい。ある意味、「長男(息子)の孫を見たい」という母の欲望は、説明なしに、まるで絶対的真実であるかのように、提示される。

恋愛と結婚を切断するという戦略は、結婚を最終的なゴールとすることを不可能にしてしまった。だから、「ひとりが好き」から「ふたりの(恋愛)関係」へと進展した物語は、決して「ふたりの結婚」という社会の既定路線にはつながっていかない。おそらく「結婚できない男」がもっともうまく社会通念のなかに導入することに成功したのは、アラフォーの心理というよりは、いい年した男女の(恋愛)関係が結婚に行き着かないという別のライフスタイルだったのではないだろうか。

 

俳優の演技はうまい。というよりも、それでどうにか話が持っていると言うべきだ。言葉にすれば何の厚みもない物語がしっかりと見られるものになっているのは、俳優のプレゼンスのおかげである。阿部寛は桑野の不器用さを自然体で表現しているし、夏川結衣は早坂の皮肉っぽい気の強さと人懐っこい弱さを誇張なく演じている。キャストにスキがない。

 

桑野は基本的に世間の評判などどこ吹く風という超然としたを見せているが、その一方で、金田裕之という同業者――格好ばかりつけて、業績はでっち上げで、女遊びにいそしんでいる――のホームページをこまめにチェックし、冷やかす。そのくせ、実際に金田に遭遇すると、おどおどして、知らんふりをしてしまう。この嫉妬と好奇心と小心さの混淆が、桑野というキャラクターを、人間臭い、愛すべき存在にしている。

結婚できない男』は表層と深層の亀裂を前提としている。根底では誰もが恋愛がしたくて、下世話な欲望にまみれている。しかしそうした本音をそのまま表に出せる人間は稀である。そして金田は、そうしたレアケースだ。

金田には本音と建前のズレがない。表層が深層であり、深層が表層である。だから彼の女遊びはまったくの真剣勝負で、ボーリング好きの女を落とすためならひたすらボーリングに通ってスコアを上げ、女の喜ぶ贈り物を先回りしてリサーチしてさりげなくプレゼントする。スポーツカーを乗り回す金田の姿はいかにも虚栄的で、意図的に嫌らしい人間であるかのような扱いを受けているが、このひねくれた世界のなかで、金田は、自分の本心を嘘偽りなく見つめ、それをそのまま実践できる、ただひとりの男だ。言ってみれば、彼はこの世界の理想であり、ゴールであり、隠れた神のようなものだ。金田が毎回どこかでひょっこりと顔を表すのは当然であり、必然である。

中川総合病院の跡取りドラ息子の中川良雄は、金田の倒立像になっている。中川はキャバクラに通い、キャバ嬢に貢ぎ、女をモノにしたいと願うのだが、結婚している以上、たとえ副院長だとしても、動かせる金は小遣い程度でしかない。財布のひもは、桑野の妹である嫁にがっちり握られている。だから彼はその欲望に忠実であることができないし、その一方で、家族を愛してもいる。キャバクラ遊びもしたいし、家族サービスもしたいという板挟みのなか、結局、後者を選ぶ以外の自由を持たない。

結婚できない男』が描き出す世界観のなかで金田のような存在のもつ重要性を考えていくと、物語の最後で、桑野と金田のあいだにとうとう交流が結ばれるというのは、きわめて示唆的だ。あれだけディスっていた金田のホームページに、桑野と金田のツーショット写真がアップロードされる。

少なくともあるたぐいの男たちにとって、結婚生活とは、深層と表層のギャップやツイストを受け入れ、それに耐えることである。そして桑野は、これまでの彼が生きてきた偏屈な独身者の「結婚しない」ねじれた生活でもなければ、結婚生活というねじれでもなく、金田のような享楽的な独身者のストレートな接続のほうを選ぶかのような結末ですらある。

だがそれが、男の独身者の自由であることは言うまでもない。その意味では、このドラマが徹頭徹尾、男の身勝手さと身勝手な自由をめぐるものであり、男の価値観にとって都合の良い自己肯定に終始しているのではないのかという気もする。