うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

問いかける存在として:レベッカ・ソルニット、東辻賢治郎訳『私のいない部屋』(左右社、2021)

自伝をいつ書くか、どう書くか。答えの出ない問題だ。人生の総決算として書くのか、これからのロードマップとして書くのか。編年体で客観的に綴るのか、連想で飛躍しつつ主観的に語るのか。

ここでソルニットは、その中間を行く。時系列を基調とするが、細かく日付を記していくわけではない。精神的な回想ではあるが、そこでコアになるのは彼女の肉体である。自分の居場所を社会のなかに見つけ出すことが、本書を貫くテーマである。

あなたには何があるのか? どこならば存在を許されて、歓迎されるのか? 自分にはどれくらいのスペースがあるのか? どこでは疎外されるのか? 街では、仕事では、会話ではどうか? 私たちの苦闘はすべて領土を守ったり勝ち取ったりする縄張り争いだと思えば、私たちの個々の違いは、それぞれがどれだけの空間、つまり語り、身を寄せ、歩き回り、生み出し、境界付け、勝ち取るものとしての空間をどれだけ許されているか、あるいは禁じられているかということになる。(92‐93頁)

しかし、これをパッシヴな自問として受け取らないように注意しなければならない。彼女のプロジェクトは、この世界のなかに女性のための避難所を見つけ出すことではない。そうではなく、社会のなかに自分の居場所を作り出すために世界に抵抗することである。それは、自分の存在を認めない世界を変えてこうとする革命的な試みである。

訳者の東辻賢治郎が原書タイトル Recollections of My Non-Eixstence——直訳すれば『わたしの非存在の回想』——を、おそらくヴァージニア・ウルフのA Room of One's Own*1を踏まえてのことだろう、『私のいない部屋』と意訳していたのは、巧みな選択だったと思う。

ここでソルニットが問題化しているのは、わたしはたしかにここにいる、肉体をもった存在としているにもかかわらず、搾取され蹂躙される女の肉体としてしか認識されないこと、全人格的なひとりの人間としてはカウントされないという精神的な透明人間状態を女性が強いられてきたという歴史社会的な状況であるからだ。わたしはいないが、部屋はある、部屋にわたしはいるにもかかわらず、いないことにされている――そのような不正にたいするプロテストである。

そのようなプロテストは、ひとつひとつ個別の事例を取り上げてみれば、ローカルで小さな試みかもしれない。しかしそれが本当にラディカルに、すべての女性によって実践されたとしたら、世界はどう変わるだろうかとソルニットは問いかける。

この世界の半分には、女たちの恐怖と痛みが敷き詰められている。あるいはむしろ、それを否定する言葉で糊塗されている。そして、その下に眠っている幾多の物語が陽の目を見る日がくるまで変わることはない。私たちは、そんな風にありきたりで、どこにでもあるダメージの存在しない世界を想像できなくなっている。ひょっとすると、そんなダメージがなければ世界はびっくりするほど明るくなるのではないか。今はほとんど経験できない、自信をもつことの喜びがずっとあたりまえになるのではないか。人類の半数から多くのことを遠ざけ、あるいは触れさせもしなかった重荷を取り去ってくれるのではないか。そう言いたいがために私はこんなことを書いている。(81‐82頁)

彼女は書くことで、自身の同じような体験をしてきた/している女性たちと連帯しようとするが、それは同時に、そのような非存在を彼女たちに強いる世界の構造に抗うすべての人々と連帯しようという試みでもあるのではないか。そこに、彼女の本が狭義のフェミニズムを越えて拡がっていく力が宿っている。

彼女は自身の体験を語りはするけれど、それは自らをロールモデルに仕立て上げるためではなく、答えを示すためではなく、問いを打ち立てるためだ。「もしかしたら私はずっと、答えではなく問いの中で生きてゆくのかも知れない」(92頁)と書きつけるとき、それは完全に肯定的な言明ではないのかもしれない。しかしこの悩みを抱えつつも、問いを共にして共に歩んでいこうとするところに、ソルニットの本の勇敢さがある。だからこそ、彼女の本は、読む人に希望する勇気を与えるのだ。

*1:邦訳は『私だけの部屋』、『私ひとりの部屋』『自分だけの部屋』、『自分ひとりの部屋』とあり、oneを「私」とするか「自分」とするか、ownを「だけ」とするか「ひとり」とするかで、意見が分かれている。