うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。脱魔術化されすぎた世界での啓蒙の所在なさ。

特任講師観察記断章。「そうはなりたくはない他者」(忌避の他者)、「そうなることはできない他者」(畏怖の他者)、要するに、「いまここにいる自分とは異なった存在」のことにも思いをはせ、そのような存在をも理解しようとすること、そこにこそ、人文的教育は賭けられてきたのではないか。

なろう系の異世界ものが、物語作りから言うと単調きわまりないものでありながら、欲望充足装置としてはきわめて妥当であるのは、それが、「いまここにいるそうはありたくない自分」(否定されるべき自分)を脱却して、「どこかでそうありえて欲しい自分」(肯定したい自分)と同一化するためのお手軽なナラティヴとして機能しているからだろう。そこで理想とされているのは、世界を自由に改変できる自由は持ちながら、そうした力を持つことで発生してしまう世界にたいする義務や責任は放棄し、全知全能の単なるいちプレイヤーとして世界に遊ぶことだ。こういってみてもいい。そこでわたしたちは、造物主とプレイヤーに分裂し、前者の能力や視点を保ったまま、しかし前者であることは忘却して、後者として世界と戯れる。究極的なまでの独我論的世界ではあるが、同時に、その独我論的世界が「わたしの世界」であることは否定される。わたしの作った世界のなかで、それがあたかもわたしではない誰かが作った世界であるかのように、全知全能を愉しむ。

レベッカ・ソルニットが『災害ユートピア』で描き出したように、危機的状況にこそ自発的に出現する相互扶助の世界があることは事実だろう。物理的な欠乏が必然的に精神的な閉鎖を招くわけではない。だがそれは、身近な他者との半強制的な出会いがあってのことでもあるだろう。しかし、そもそも寛容という精神のレパートリーがあらかじめ用意されていないところでも、物理的条件が整えば、寛容は芽生えるのだろうか。寛容とは、他なるものを、完全に統合することも拒否することもなく、ニュートラルにそば近くに(しかしあまり身近すぎないところに)置くことであるように思うのだが、その曖昧な居心地の悪さ、微妙な得体の知れなさ、多少の不気味さにたいする感性が、学生たちから、決定的に欠落しているようにも感じる。

そのことを思うにつけても、都市伝説のような馬鹿馬鹿しい噂が1990年代においてもまことしやかに語られていたのは、わかるような気がした。あれはあれで、近代の都市生活者が前世代から引き継いだ、不気味なものと共生するひとつの技術だったのだろう。しかし、すべてがデジタル的に明るみに出てしまう現代では、啓蒙は完遂されていないのに、魔術的なものが脱魔術化されすぎてきているのかもしれない。それによって失われたのは、恐れと畏れの両面性ではないか。恐ろしいものはただ恐ろしく、それゆえ、否定され、追い払われなければならない。理解できないものは、ただ恐ろしい。

啓蒙不充分であるのに、啓蒙の仮想敵である玉虫色の魔術的なものが単なる嫌悪に転化してしまっているように思われる世界で、何が人文的教育に依然として可能だろうか。