うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230414 成田悠輔『22世紀の民主主義』について書き留めておく。

読んだのは数か月前。何か書き留めようと思っているうちに時間が過ぎてしまい、いまさら感があるが、いちおう書き付けておこう。

 

謙虚さと傲慢さがないまぜになっているように感じる。

一方には、間違うことを恐れずに、手持ちの知見をよりどころにして、積極的に提案をしていこうというポジティヴな態度がある。もし自分が間違っているのならそれを遠慮なく引っ込め、ベターなものを採用していこうという柔軟さがある。

しかし他方には、現状にたいする攻撃的な批判、しかも、愛の裏返しとしての辛辣さではなく、自らの知性や知識をひけらかすようにして、ある種の正しさをふりかざして、善意の専制君主のごとく、遠慮なく攻撃性を解放することそれ自体を愉しんでいるかのように感じられる部分がある。

 

システム設計の話として理解するなら、成田が言っていることに妥当性はある。世界のデジタルインフラはすでに激変しているというのに、いまだに紙ベースといった旧態依然のシステムに固執することは、現実とのミスマッチをひろげることにしかならない。そして、このような状況を放置すればするほど、デジタル環境を逆手に取ったポピュリズム的な政治家の跳梁跋扈を許すことになるだろう。だからこそ、もしいま民主主義を救いたいと思うのなら、それをアップデートするしかない、システムを作り変えるしかない——そのような主張は至極真っ当なものである。

 

エビデンス主義が強い。それは彼が学んだアメリカにおける社会科学の流儀なのだろう。しかし、現実についてのデータを武器としてかかげる彼のやり方は、エンジニア的な態度であるように感じる。データ屋というのはけなしすぎだが、彼の本領は、社会全体、世界全体のスキームの構想というような大きなものではなく、つねにすでにある社会空間のなかで最適の結果をもたらすような、システムの中のシステムを設計するほうにあるのではないだろうか。その意味で、彼はミクロな意味での戦術家である。

 

それは彼自身もわかっているのだと思うし、それをわかったうえで、あえて自分の専門領域を踏み越えて、大きな提言をしてみているということなのだろう。それはなかなかできることではない。そこはやはり評価すべきところだ。

 

けれども、成田の議論を追いかけていくと、何とも言えない違和感が高まってくる。

それはおそらく、成田の人間観がきわめて悲観的なもの、性悪説的なものであるからという理由ではない。そうではなく、成田は現代のデジタル環境が人間を欲望する動物のようなものに変えてきたことを理解しつつも、そのような人間をべつのかたちに作り変えるのではなく、そのような人間を所与のものとして受け入れ、そのような人間たちが民主主義をまがりなりにも成立させていけるようなシステムを構築しようとしているからだろう。その意味で、成田の議論、彼が「無意識データ民主主義」と呼ぶものは、対症療法的なところがあるし、東浩紀の議論——動物的になった人間を再啓蒙しようするのではなく、欲望する動物的な人間の無意識を自動的にすくいあげるような制度を構築してしまおう——とクロスするところがある。

 

もちろん、アルゴリズムが差別や偏見をはらみうること(実際にはらんでいること)は成田も率直に認めている。しかし、彼がそこで考えるのは、アルゴリズムの公平性をたえざるバージョンアップとアップデートによって修正していくことであり、それはどこまでいってもバランス調整でしかないのではないか。

成田の方向性はきわめて洗練された現状維持路線であるように感じる。

 

成田が構想する民主主義とは、わたしたちが意識的にコミットする必要のないシステムである。言ってみれば、わたしたちはそこでは、システムの一部になっているのである。そこでわたしたちは、プレイヤーというよりも、ゲームが繰り広げられるスタジアムのパーツとなっているかのようなものだ。プレイヤーは、システムがわたしたちから自動的に吸い上げてくれた意見の統計的な集積物であり、システムの設計者は監督のようなものになるだろうか。しかし、監督にしたところで、プレイヤーに事細かに指示を出すことはないだろう。むしろ、ゲームが始まったあとはオートモードで進んでいくようなものかもしれない。

無意識データ民主主義は、投票(だけ)に依存せず、自動化・無意識化されているう。その結果、多数のイシュー・論点に同時並行対処できる。意識的な投票・選挙が作り出す同調やハック、分断も緩和することができる。(204頁)

 

膨大なデータをさばくことは人間の能力を超えるものだが、アルゴリズムは統計的データーを処理し続けても疲れるということがない。だからアルゴリズムにゆだねようというのは、たしかに、筋は通っている。

「民主主義とはデータの変換である」(164頁)という彼のテーゼがほのめかすのは、ガバナンスとは、いまある世界をラディカルに変えることではなく、ラディカルに変えないための弥縫策であるという点ではないだろうか。

こう言ってもみてもいい。彼が見るのは、統計的に処理された全体としての民意であり、局所的なところで始まった一部の意見ではない。ある意味、彼は意図的に、集合的ではないもの、個々人の特異性のようなものを、捨象している。というよりも、わたしたちをひとりの人間ではなく、あれこれの意見をアウトプットする存在としてとらえることは、フィジカルな世界ではなく、ヴァーチャルな世界こそがリアルであること、後者こそが前者を決定していることを力説しているに等しいのではないだろうか。

Twitterのようなデジタル空間がイデアの世界になっているかのように。

 

そこで人間的なものの復活を説くのはノスタルジーでしかないだろう。しかし、成田のような、肉体なき欲望としてのデータの集合体がおりなす民主主義というシステムは、どこまでいってもシミュレーション的であるように感じられてしまうのが正直なところ。

英雄的な個人ではなく、集合的な意見という観点から人間社会を捉え返すことは、重要ではある。個人の夢想が招いた暴走は歴史上いくつもある。それを避けるには、個人に過大な力を割り振らないほうがいい、特権的な個人による行動の重要性を過大視しないほうが健全ではある。

 

ただ、成田の考えには倫理的なストッパーがないと言えるのではないか。ここには統整的な理念はない。良くも悪くもすべてがフラットであり、だからこそ、そこでの判断基準は効率性や正確さというようなものに落ち着かざるをえない。

それがだめというのではない。しかし、理念や倫理が、練り上げられた原理や原則ではなく、それ自体としてはいわば無防備な(価値中立的な)科学的道具立て——統計データ、アルゴリズム、エンジニアリング——と、一個人の主観的なところにつなぎとめられているというのは、やはり危ういものを感じる。