うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230408 グレタ・トゥーンベリ『気候危機と環境危機』を読む。

「地球上には海面水位を65m、つまり20階建てのビルの高さほども上昇させられるだけの氷がある。」(シュテファン・ラームストーフ「温まる海洋と上昇する海」83頁)

名だたる学者やジャーナリストが寄稿した本書は気候変動をめぐる科学的、歴史的、経済的、政治的、社会的議論を網羅しており、気候変動をめぐる書籍の豪華決定版とでも言うべきものだ。しかし、ひとつひとつの寄稿文は数ページと短いものの、寄稿者の数が多いため、ずいぶん大部の本(脚注や索引を含めて446頁)になっている。しかも、かなり厚手の紙を使ったハードカバーのため、ずっしりと重く、かかえて読むのに苦労するほど。本というよりも図鑑に近い手ざわり。

しかし、ふんだんにグラフが入っているおかげで、気候変動がまぎれもない事実であることを繰り返し突きつけられる。とくに1991年から2021年のCO2の排出量は、1990年までのCO2の排出量を上回るというデータは衝撃的だ。近代文明が地球環境を変えてきただけではなく、それが加速していること、加速度は近年さらに上がっていることを痛感させられる。

自然環境の変化は閾値的なところがある。状況は比例的に変化していくというよりも、ある段階を越えると一気に変化する。坂を転げ落ちるように、一気に悪化していく危険をはらんでいる。そうなると、状態を回復させることは絶望的になる。そして、わたしたちはますますそのような不可逆的な臨界点に近づきつつある。そこにこそ、気候活動家の危機感と切迫感があると言ってよいだろう。

にもかかわらず、気候変動にたいするわたしたちの態度は一様ではない。熱心な活動家がいる一方で、他人事のように無関心な層がいる。気候変動は、今回のパンデミックのように、世界中のすべての人が逃れえないものであるにもかかわらず。

寄稿者たちはさまざまな理由や原因を上げているが、個人的にはっとさせられたのは、ソロモン・シアンの次の言葉。

気候が人間のきわめて重要な結果におよぼす影響は、単純な直線では表せない。非線形なのだ。温暖化の影響は各地の現在の気温しだいなのである。一般的に、寒い地域に暮らす社会(ノルウェーなど)では、温暖化は役に立つ . . . 温暖な地域で暮らす社会の場合(アメリカのアイオワ州など)、温暖化は健全な暮らしぶりにほとんど影響を与えない . . . 気温がおよぼす非線形の影響がそれほど問題になる理由は、今日、貧しい人びとが総じてはるかに暑い地域に暮らしているからだ . . . 気候が変化するとなると、貧しい人びとは暑い地域に暮らしているせいで、不利な出発点に立たされていることになる。こうした地域では温暖化はとりわけ有害になるが、涼しい場所に暮らす豊かな人びとの場合、温暖化はさほど被害をもたらさず、ときには有利にすらなるのだ。(ソロモン・シアン「温暖化と不平等」183頁)

そう、気候変動の影響は一様ではない。そしてこれまでの世界経済や世界政治を牛耳ってきたのは、気候変動の悪影響を直ちには感じない北部なのだ。だからこそ、気候危機は自然の問題にはとどまらないのであり、必然的に、政治や経済を巻き込むことになる。というよりも、現在の世界秩序の不正を正すことなくして、気候変動をめぐる問題を解決することはできないというべきだろう。気候変動は、これまでの世界の仕組みをラディカルに転換することを要求している。

ただしそれは、グローバル・ノースのエリートが悔い改めればいいという問題ではない。なぜなら、グローバル・ノースが作り出した世界それ自体が、気候変動を加速させているのであり、その生活様式を受け入れているわたしたちもまた元凶であるからだ。

20世紀初めに人口肥料が考案される以前は、牛は牽引力や牛乳、文化的重要性のほか、肥やしも与えてくれる動物として重宝されていたので、食肉のために殺されることはめったになかった。アフリカやアジアの農村の経済では、いまでもこれは言える。ところが裕福な地域では、このような養分循環を断ち切ってしまった。私たちは大気中から不活性の窒素を取り込み、エネルギー集約型製造業で肥料に変え、それから家畜の飼料となる作物を育て、最終的に人間が消費する動物性タンパク質を生産する。人工的に変換された大量の反応性窒素は、農場からの亜酸化窒素の放出という形で気候変動を促進し、その後、食品は複雑な国際貿易網を介して大陸を越えて運ばれ、最後は都市部の下水に流されて、内陸部の河川や沿岸部に入り込み、生物多様性や生態系の機能に害をおよぼしている。(ソーニャ・バームーレン「新しいフードシステムの設計」253頁)

しかし、この立場を極限まで追求すれば、その論理的な帰結は人類の絶滅ということになってしまうだろう。とはいえ、そのような滅亡主義がここで打ち出されているわけではない。

どうすればいいのか。

本書の編者であるグレタ・トゥーンベリによれば、わたしたちがなすべきは、何かを新たにするというよりも、これまでにやってきたことをやめることであるという。

私たち気候活動家は、気候を救うために何をすべきなのかと、よく人びとから質問される。だが、その問い自体が間違っているのかもしれない。代わりに、私たちは何をやめるべきか問い始めるべきなのかもしれない。ときには、気候危機を解決するための解決策はすでにそろっていて、私たちに必要なのはそれらを実施することだけだという言葉も聞く。しかし、これは私たちが有効な解決策として何をすべきでないかを考えた場合にのみ、言えることだ。私たちがその考えを受け入れるつもりであれば、まだこの混乱から抜け出せるだろう。(グレタ・トゥーンベリ「まるで新しい考え方」241頁))

そのためには、精神的な大転換が必要になるだろう。諦めることを肯定的に捉え、手放すことが未来につながる希望であることを積極的に実践していかなければならない。それはおそらく「脱成長」の思想と響き合うものかもしれない。「断捨離」はそれに近い位置にあるだろう。

難しいことかもしれないが、わたしたちが思っているほどには難しくないのかもしれない。大切なのは、とにかく試してみることである。

所有物を減らし、共有を増やすことは、解放感をもたらすことがわかった。とにかく、気分がいいのだ。その過程で私が身をもって学んだことは、変化というものはたいてい起こす直前が最も難しい、ということだ。自分が何かを失うのではないかと思ってばかりいて、代わりに何かを得るかもしれないことを想像するのがひどく困難になってしまう  . . . 私たちのライフスタイルを方向づけてきたシステムを変えることは、始める前はとっても困難に思えるのかもしれない。しかし、10年もしないうちに、私たちはただ過去を振り返って、なぜあれほど抵抗し、あれほど疑ったのかと、誰もが文字通り繁栄できるようになるライフスタイルを採用するまでに、なぜあれほど時間がかかったのかと、不思議に思うのかもしれない。(ケイト・ラワース「1.5℃上昇のライフスタイルに向けて」336頁)

もちろん、積極的にやっていくべことはある。グリーンエネルギーへの転換であるとか、プラントベースの食事への移行であるとか、自然を再野生化 rewilding するとか。

しかし、それらもやはり、たんなる足し算ではない。いまの世界の在り方、いまの常識を変えていかなければならないことである。近代文明の恩恵を享受することで、わたしたちが何を失ったのか、何がわたしたちから欠けてしまったのかを、知らなければならない。

気候危機はわたしたちと世界の関係を捉え直し、作り直すことを求めている。