うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230407 ジョン・ボウカー『世界の宗教大図鑑』を流し読みする。

近隣の図書館で借りてきたジョン・ボウカー『世界の宗教大図鑑』は、カラー図版がふんだんに入っており、読むというよりも、眺めるほうが向いているだろう。350頁はそこまで厚くはないが、ハードカバーで、ページにかなりしっかりした紙を用いているため、ずっしりとした手ごたえがあり、持って読むのはしんどい。通読するよりも、参照すべきものだろう。

というわけで、パラパラとページをめくるだけにする。

目次を見ると、各宗教ごとに監修者がリストアップされている。ということは、ジョン・ボウカーが「著書」としてクレジットされているが、実際は編者という位置づけに近いのかもしれない。

それはさておき、「世界の宗教」と銘打たれてはいるものの、いまひとつピンとこない分け方になっているようにも感じる。古代の宗教、ヒンドゥー教ジャイナ教、仏教、シク教、中国の宗教、日本の宗教、ユダヤ教キリスト教イスラム教、土着宗教。このラインナップだけ見ると、アジア圏が妙にクローズアップされている感じがしてしまうし、日本に独立した章を割り振る必要があったのかという気もする。

ともあれ、カラー図版に注目しながらページをたぐっていると、宗教がじつはきわめて華やかなものであることに気づかされる。コントラストの強い極彩色のカラーリングは、攻撃的と言ってもいいほどだ。

現代日本における宗教のイメージは、もしかすると、一方に禅宗的な簡素さがあり、他方に、新興宗教的な露悪性があるのではないかという気がしてきた。禅的なわびさびが良く、新興宗教的な露悪性は悪いという価値観である。

しかし、神社の鳥居の朱を思い出せばわかるように、日本の神道にしても、自然にはあまりない、いわばきわめて人工的な色を大々的にフィーチャーしているわけで、枯れた色合いを好む禅はむしろ、華やかでゴージャスな色合いを好む大多数の宗教にたいするアンチテーゼと見るべきなのだろう。そう書きながら、古代ギリシャの彫像はじつは鮮やかな色が塗られていたのに、古びるにしたがって塗装が落ちて下地だけ残ったのに、そのような経年劣化によるモノトーンが西欧において美の規範となっていったという経緯が思い出された。

そう考えていくと、東大寺の大仏の巨大さ、密教曼荼羅の濃厚さは、驚くには値しないのであり、むしろこれは、祭儀のさいにまとわれる衣装の異形なきらびやかさと同じラインで捉えるべきことなのだろう。そのように眺めてみると、いまの感性からすると、ほとんどコスプレのように見えてしまうローマ教皇の衣装と、いわゆる土着宗教におけるおどろおどろしい仮面と、仏教のきらびやかな袈裟とが、同じジャンルにあるのだということが見えてくる。

宗教が伝統的に豪奢なのは、それが人間の生活にとって特別のものであり、特別な機会のためのものだったからだろう。日本的な言い方をすれば、宗教はハレの領域に属するものだったのかもしれない。宗教はたしかに死にかかわるものだが、同時に、生にかかわるものでもあれば、来世(次の生)にかかわるものである。現代の日本で宗教がからんでくるのはまずなにより葬式であるから、宗教の明るい側面を見落としてしまいがちだが、それを忘れるのは片手落ちである。

しかし、もしそれにもかかわらず、宗教の華やかさを肯定的に捉えられないとしたら、それは、現代日本における華やかな宗教とは、新興宗教のけばけばしさと同義だからではないかという気がする。新興宗教の施設の異形な巨大さは、周囲の景観を破壊しかねないほど自己主張が強い。それを肯定的に捉えられるのは、おそらく、信者だけではないだろうか。

やはり図版は見てみるものだ。いろいろと考えるべきことが思い浮かび、物事の見方を批判的に捉え返す契機になる。