うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20231209@静岡音楽館AOI 濱田芳通指揮、アントネッロ、モンテヴェルディ『聖母マリアの夕べの祈り』を聞きに行く。

20231209@静岡音楽館AOI
濱田芳通指揮、アントネッロ、モンテヴェルディ聖母マリアの夕べの祈り』

宗教を信じない者が西欧クラシック音楽の本丸とも言うべき宗教曲を聞くことの矛盾を、昔からずっと感じていた。だから、いわば世俗的な人間劇を前面に押し出したシェルヘンによるバッハの『マタイ受難曲』やヘンデルの『メサイア』を愛聴し、敬虔な演奏を遠ざけてきたのだと思う。しかし、濱田芳通とアントネッロによるモンテヴェルディ聖母マリアの夕べの祈り』は、宗教曲を人間的に演奏する別の可能性を提示していたように思う。祈る対象(神)を讃えるというよりも、祈るという行為それ自体を前景化する。そこでは、神の存在は自明ではない。熱く烈しい祈りの言葉が、神をパフォーマティヴに出現させる。そして、祈ることそれ自体が超越性を帯びる。

正直に告白するなら、モンテヴェルディ聖母マリアの夕べの祈り』は個人的にはよくわからない曲だ。冒頭のファンファーレーー『オルフェオ』と同じフレーズーーの出オチ曲という印象すらあった。音楽史上の重要性は頭では理解しつつ、色々な音源を試してはみたけれど、直感的には納得できないでいた。しかし、やはり、ライブで聞いてみるものである。

この曲は環境音楽であり、機会音楽なのだと思う。教会という残響の深い空間で、キリストを讃え、父なる神を讃え、聖母マリアを讃えるための音楽であり、その意味では、音楽単体では独立しえないものと言うべきだろう。コンサートホールという非宗教的空間で上演するのは(ましてや、録音するのは)、曲の生理に反する行為と言わなければならないところだ。

しかし、濱田たちは、そのような難題をさまざまなかたちでクリアしていた。声楽のソリストを器楽アンサンブルの後ろに並べつつ、曲によってかなり細かく配置を変更する。ソリストがアンサンブルの前に出てくるのは当然として、ステレオ効果を強調するように、歌い手を左右に振ったり、前後に振ったりすることで、視覚的な動きを作り出していた。

濱田の指揮は、カルロス・クライバーバーンスタインを掛け合わせたような、没入型の舞踊であった。腕をぐるぐる振り回すかと思えば、しゃがみ込むほどに全身を沈み込ませる。しかし、そのような所作が、これ見よがしのパフォーマンスではなく、彼が作り出そうとしている音楽の具現化になっている。感性的に、ジャズの即興のように、その場のパルスに身を任せるかのような雰囲気がある一方で、旋律の細かな動きを示唆するために、右手の指揮棒も左手も細かなリズムを流麗に示していく。

このパフォーマンスの比類ない説得力の出所は、おそらく、パフォーマーの宗教性でもなければ、語られる言葉そのものにたいする感受性でもない。ラテン語をそのまま理解できる日本の聴衆はほどんど皆無であり、言葉のディクションを強調することに大きな意味はないだろう。その代わりに、彼らの演奏では、言葉の意味が、語りの強度に転化していた。だから、ときおり、情念そのものが直に表出したような生々しさがあった。

それはもしかすると、キリスト教信者には表現しがたいものかもしれない。ここでは、教条主義的に敬虔であることを目指さないことによって、さまざまな可能性が開けていた。たとえば、テオルボと呼ばれるリュート的な楽器は、歌手がソロ的に歌うナンバーでは、アップピッキング気味に、ほとんどシンコペーションのように、ジャジーに弾いていた。そのような、もしかすると「不敬」な態度が、400年以上前のモンテヴェルディの音楽に生気を吹き込み、あたかもいまここでそれが生起しているかのような印象を与えたのではないだろうか。

しかし、CDでは省略されることもあるアンティフォナを差し挟むことで、この曲が中世につらなるグレゴリオ聖歌と、バロックにつうじていくルネッサンス音楽の結節点にあることが、はっきりと浮かび上がってくる。解釈的には恣意的な部分があるのかもしれないけれど——ヴァイオリンはわりと潤沢に装飾音を奏でていた———、様式感における踏み外しはない。

個人的にもっとも心を打たれたのは、終曲のマニフィカートの前に置かれた(そして、マニフィカートの後奏としても朗誦された)次の一節。

Sancta Maria, succurre miseris, 
juva pusillanimes,
refove flebiles
ora pro populo,
interveni pro clero,
intercede pro devoto femineo sexu;
sentiant omnes tuum juvamen
quicumque celebrant tuam commemorationem.

聖マリアよ、この世の不幸に想いをめぐらせてください
内気な者を支え、嘆きの底にある者を蘇らせてください
人々のために主に祈り、聖職者に代わって主へ執りなし
女性を犠牲にしない、主への仲介者になってください
そうしていただければ私らは皆、あなたの助けに気づき
あなたの聖明な心を誉めたたえることでしょう

ここには、きわめて人間的な希求がある。このような視点からモンテヴェルディの『聖母マリアの夕べの祈り』にアプローチする可能性を示してくれたことに、深い感謝の念を覚えている。

(ところで、濱田は、いくつかのナンバーで、指揮棒をリコーダーやコルネットに持ち替え、みずからも奏者として参加していたけれど、あれはどこまで必要だったのかという気はするところ。彼の演奏自体はすばらしいものではあったけれど、ひとりの奏者として振る舞えば振る舞うほど、指揮者としての統制は薄くなる。この演奏が、つまるところ、この曲を深く愛する濱田の熱量によって回っていることを踏まえると、指揮者から奏者へのスイッチが果たしてベストなやり方だったのかとは思うところ。)