ジェフリー・テイトのワーグナーをずっと聞いてみたいと思っていた。いまはもうネットでは出てこない長文の邦訳インタビューのなかで、1990年代なかばにシャトレ座で振ったワーグナーの『指環』について、イタリア風に旋律を歌わせるワーグナーをやろうとした、とテイトは述べていた。それは、バイロイトで助手をしたブーレーズの透明感のある音楽づくりを引き継ぐものであると同時に、グッド―ルの立体的な歌いまわしと、フルトヴェングラーの『指環』のふたつのライブ録音――スカラ座とRAI放送響――のイタリアのオーケストラの弦の美しさとライブだからこその一回性を融合的に実現しようとしたものだったらしい。同じインタビューによれば、シャトレ座との『指環』は、ベルクの『ルル』のときのように放送用録音を作ったそうだが、後者はEMIから発売されたものの、前者についてはいまだに世に出ていない(ごく一部が断片的にYouTubeに上がっている程度)。バイエルン放送響とのワーグナーの正規録音は、EMIらしい録音の遠さと薄さや、ドイツのオケの実直さのせいか、歌はあるにしても歌い切れてはおらず、繊細な薄味というにしてもあまりに淡く温い演奏だった。
2002年にRAI放送響を振ったこの『マイスタージンガー』全曲録音は、テイトが目指していた理想的なワーグナーではないかという気がする。ブーレーズ的な透明感と、イタリアのオーケストラの官能的な歌い口と、グッドール的な立体的な旋律の対位法が、きわめて美しいかたちで融合している。しかし、それはきっと、気が遠くなるほどの丁寧な下準備の賜物だろう。
テイトは上述のインタビューのなかで、『指環』にはつぶしていかなければならない細部が山ほどあり、現在の時間的制約のなか、それをどこまでオーケストラや歌手と一緒にやっていけるかが物理的に難しいところなのだと述べていた。この録音を聞いた感じ、もしかすると、歌手や合唱にたいする個別リハーサルだけではなく、弦楽器だけ、管楽器だけ、というようなパートごとのリハーサルさえ行って、どこまでも丁寧に、ひたすら入念に、時間をかけて譜面をさらったのではないかという気がする。
なんとなく惰性で流している箇所がない。管楽器のアンサンブルが緻密で、楽器群のあいだの音色の統一感が比類ない。間の取り方が、器楽的なそれではなく、歌唱的なものになっている。奏者は歌うように演奏し、歌手は器楽とアンサンブルしている。当然のことではあるが、これらが出来ている演奏は実はひじょうに稀だ。オケが出しゃばりすぎてしまったり、その逆に、伴奏になりさがってしまったりというのは、あまりによくあることである。
けれども、技術的な意味で全体の完成度が高いわけではない。ライブの常として、踏み外しやズレは随所にある。完璧な演奏とは言いがたい。しかし、そのようなものを目指した演奏ではない。細部の細部までさらうことで、音楽のすべてが、意識の認識対象になる。そのような明晰さを背景にしてこそ、歌や楽器の身体が自由に動けるようになる。作り込むことが、歌手や奏者を解放する。そのような音楽がここでは目指されているのだと思う。そしてそれは成功していると思う。
かなり遅い演奏だ。5時間近い演奏時間は、マイスタージンガー演奏史のなかでも相当遅い部類に入るだろう。歌劇場では間が持たないテンポかもしれない。本録音をアップロードした人の記述によれば、1幕2幕をやった1週間後に3幕をやっているそうなので、演奏会形式だったのだろう。演奏会形式というと、バーンスタインのバイエルン放送響との『トリスタンとイゾルデ』のように、舞台上演をミックスしたものもあるけれど、合唱の恐るべきほどの精度——これほど合唱がうまい『マイスタージンガー』は録音でも聞いたことがない——と、リートを歌っているかのように言葉を大事にする(しかし、それでいて、レチタティーヴォ部分にいたるまで、言葉を完全に旋律に転化する)歌手たちの歌唱は、歌うことだけに集中できたからこそのものではないかという気もする。
ここまですべてが歌われた『マイスタージンガ—』は聞いたことがない。力押しになっているところがない。すべての箇所について、「どう演奏するか」を、指揮者と演奏者たちが何かしらの意味で話し合ったのではないかと感じさせてくれるという意味で、空前絶後の演奏。
これほどの時間と手間をかけて、歌手と合唱とオーケストラを仕込むことは、現代ではほとんど不可能だろう。そこまでの人員を必要としないバロック期の音楽なら、まだ可能かもしれない。古典派の編成なら、まだ可能性はあるかもしれない。しかし、ワーグナー以降の大編成の音楽でこれほどのリハーサルを要求することは、もはや、不可能ではないだろうか。そして、このような演奏は、そうした不可能を可能にしなければ、けっして実現されないようなたぐいのものである。
終演後に拍手があるので、聴衆ありのライブ録音らしい。「ブラビー」という称賛にまざって、「ブー」も飛んでいるように聞こえる(拍手にすぐかき消されるが)。それはわからなくもない。それぐらいこれは異質な演奏だ。
カンタービレで充ち溢れるこのワーグナーは異形としか言いようがない。しかし、直感的に説得的でもある。理性的に、分析的に明晰なだけではなく、問答無用で圧倒的。
イタリア的な明るさが、ゲルマン的な重苦しさを変容させる。しかし、にもかかわらず、最終的な音楽は、特定のナショナリティには還元できない。イタリア化されたワーグナーというわけではない。だとしても、無国籍な無色透明さではない(前者に該当するのは、おそらく、グイが指揮を振り、マリア・カラスがクンドリーを歌ったイタリア語版『パルジファル』であり、後者に当たるのは、ロスバウトがRAI放送響とやった『マイスタージンガー』だろう)。
ワーグナーのなかでおそらくもっともドイツ的な、あまりにドイツ的なこの歌劇を、ナチの政治利用によって呪われてしまったこの作品を、テイトは、イタリア的な歌と光、分析的知性という普遍性、そして、愛としか言いようのない主観的なコミットメントによって、批判的に昇華してみせる。正直、このような演奏が可能だとは思ってもみなかった。
本当に素晴らしい演奏だけれど、ところどころで別音源が混入してくるので、聞く場合は注意が必要。2幕の途中、3幕の冒頭など。