うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ピアノ曲としての『トリスタン』:大井浩明の意図的に抑制的なピアニズム

大井浩明と聞いてすぐに思い出すのは、Timpaniから出ているアルトゥーロ・タマヨとルクセンブルク・フィルとのクセナキスの録音で、そこでの大井のピアノは、奏者の肉体的な限界と楽器の物理的限界とを対決させたような、表現としての軋みがあったけれど、ここには、ショパン的なと言いたくなるような、華やかではあるけれど同時に内向的でもあるような、くぐもった抒情性がある。

大井が弾いているのは普通の現代ピアノだと思うけれど、ペダリングのせいなのか、タッチのせいなのか、ピリオド楽器のような、色っぽく枯れた音がする。また、そのような音が、19世紀半ばのポーランド出身のピアニストにして作曲編曲家のカール・タウジヒの手になるワーグナートリスタンとイゾルデ』の2幕の愛の二重奏の編曲版と、とてもよく合っている。

ここでのタウジヒの編曲は、オーケストラスコアのわりと忠実な転写になっていると思うけれども、にもかかわらず、オーケストラと歌の下位互換的な代替物というわけではなく――つまり、オペラを想起させるための単なるトリガーではなく――、独立したピアノ曲になっている。ここでは、ピアノの音の彼方に別の楽器の音が鳴っているわけではない。

とくにブランゲーネの警告(5分18秒あたりから)の箇所のアルペジオはピアノならではの表現であるし、ところどころで挿入される音は、おそらくオーケストラでは不可能な微妙な色調の揺らぎを作り出している。この調性の揺らぎは、半音階的なトリスタンの音楽の範疇に収まりそうで収まりきらない気がするし、これは編曲者の手柄というべき箇所だろう。

ただ、この煌めくような高音と、味付けとしての不協和音という取り合わせは、きわめて官能的で説得的ではあるものの、ショパンの亜流というか、サロン音楽的な確立された踏み外しという感じもある。

大井のピアノは、そのようなレディーメイドな陳腐さと、そこから逸脱する崇高さが混在するこの編曲版を、現代ピアノの性能のすべてをあえて解放させないという抑制的なやり方を選ぶことで、ワーグナーの音楽の美しさと、ピアノならではの音の美しさを、きわめて美しいかたちで表出させている。

 

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