リズムの弾力性は肉体的な衰えと密接に絡んでいるのかもしれない。トスカニーニの戦前と戦後の録音を聞きながら、そんなことを考えてしまう。一般に流布している戦後の録音はリズムが硬い。叩きつけるようなアタックと、息苦しくなるほど突進していくテンポのせいで、リズムの硬さがさらに強調されてしまう。録音やプレスが、音の厳しさを強調したきらいもある(Guildによる復刻盤は、RCAから出ているものよりずっと音が柔らかい)。1867年生まれのトスカニーニが主要レパートリーを戦後に再録音したとき、彼はすでに80をすぎていたのだ。
それに、きわめて現代的な心理的緊張もあったと思う。トスカニーニのオケであるNBC響はNational Broadcasting Companyという放送局が彼のために創立した団体だが、その目的はラジオ放送(のちにはテレビ放送も含む)ためだった。ラジオの向こうにいる大多数の聴衆のために演奏するという形態はすでに20年代から始まっていたはずだし、オーケストラの録音は20世紀初頭から試みられていたのだから、一度きりの演奏が幾度となく再生されうるという事情は、トスカニーニ特有のものというよりは、彼の世代やその後の世代に共通のものであっただろう。たとえば彼の仇敵であるフルトヴェングラーなどとは違い、トスカニーニは1920年代から録音に積極的だったから、複製技術時代において芸術が商品化されることの意味はそれなりにわかっていたのだとは思うけれど、ファシストのムッソリーニに反対してアメリカに移住したイタリア人が、アメリカという異国の地で、大資本のバックアップを受けて商業録音や放映を前提として、数知れぬ無数の聴衆に向けて演奏することのプレッシャーの全貌については、さすがに計り知れぬところがあったのではないかと思う。
その証拠に(とまで言っていいか、少々疑問もあるけれど)、1940年代のトスカニーニは基本的にゲネプロのほうが圧倒的に調子がいい(トスカニーニのリハはその暴君っぷりで悪名高いが、それと同時に、録音という圧迫がないときのトスカニーニの自然体を記録してもいる)。
録音中であることを忘れたかのようにトスカニーニがだみ声で旋律を歌いだすとき、彼の演奏からは歌が溢れだし、リズムが弾みだす。リズムが弾みだすと、音楽が前へ前へと走り出す。テンポ自体が目に見えて(耳に聞こえて?)速くなるというのではなく、音楽が熱を帯び、音の運動量が上がり、昂揚していくのだ。音が踊りだし、旋律がうねりだし、巨大な波となる。ロッシーニクレッシェンドの効果に近いのかもしれないが、音量がピアノでも、テンポがアダージョでも、それに類する現象が生起する。
そこまでくると、もはやトスカニーニの存在は感じられず、ひたすら音楽だけが聞こえてくる。もちろんこの「音楽」はトスカニーニの解釈を経ているのだけれど、にもかかわらず、たとえば「トスカニーニの」ワーグナーというよりは、トスカニーニの「ワーグナー」として聞こえてくる。
音質は最悪だが(Andanteによる豪華復刻版はかなり素晴らしい音だけれど、ヒストリカル録音に耐性がない人からすると、やかましいヒスノイズの向こうから、ホルンがボワボワ、ティンパニがボコボコ聞こえてきて、嫌になってしまうかもしない)1937年のザルツブルグ音楽祭でのウィーンフィルとの『マイスタージンガー』はそんな奇跡のような演奏だ。もちろんこんなに貧しい録音では、本当の響きがどんなものであったのかは想像するしかないけれど、トスカニーニが作り出すことのできた音楽の美しい弾み方は、80年以上前の不完全な音からでも、まちがいなく感じられる。