うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ポリフォニックに、ノーブルに:カルロ・マリア・ジュリーニの穏やかな烈しさ

カルロ・マリア・ジュリーニの音楽を支配しているのは連綿とした歌だ。それは息苦しくなるほどに濃密だが、肌に張りつくような不快感はない。怖ろしく粘度は高いが、よどむことはない。トロリトロリと流れていく。濃厚だが、重たくはない。折り目正しいが、柔軟性を失うことがない。丁寧だが、鷹揚だ。緻密だが、悠然としている。熱っぽく音楽に没入はするが、必ずどこかは冷めている。歌い込みは主観的だが、独善的ではない。ジュリーニの音楽はノーブルに響く。

この不思議な矛盾が可能なのは、ジュリーニの歌が、ポリフォニックなものだからである。トスカニーニカンタービレは、究極的には、すべてをひとつの奔流に溶かし込んでしまう。すべてが融合し、モノフォニックになってしまう。しかしジュリーニの歌は、さまざまな旋律線が、独立したまま絡み合う。主旋律が浮かび上がるように、巧みにパート間の引き渡しが行われるが、たとえ後景に沈んでいくとしても、つねに最後まで歌い切られる。旋律のかたちがくっきりと浮かび上がる。どのようなリズムパターンも丁寧に刻み込まれる。メリハリはしっかりしているし、ヒエラルキーはある。メインが前に出て、サブは後ろに引っ込む。しかしながら、メインもサブも、節度を保ったまま、存在感を主張している。

自明のことであるように聞こえるかもしれないが、これをジュリーニがやっているような精度と洗練をもって実践するのは、至難の業だ。低音のラインは、音域の関係上、どうしても埋没しやすい。中音の奏でる主旋律の裏地のようなラインは、どうしても聞こえにくい。単体ではリズム音型でしかないようなものを、全体のなかの位置付けを意識させながら、強調しすぎずに演奏させるのは、容易ではない。演奏者の生理からすると、必要以上に音を出してしまいがちなところだが、ジュリーニはそれを、強権的に押さえつけることもなく、奏者の自発性を信頼することで、成し遂げているように聞こえる。

ウィキペディアを見て、ジュリーニビオラ奏者であったことを初めて知ったが、逆にひどく納得させられた気もするのは、こうした二面性が、ビオラ奏者には必須の感性でもあるからだろう。)

ジュリーニのキャリアは不思議な遍歴を描いている。40歳前という若さでスカラ座音楽監督に就任しながら、その後はクレンペラーのオケであったイギリスのフィルハーモニア管とEMIにさまざまな録音をしたかと思うと、アメリカではシカゴ響やLAフィルと関係を深め、グラモフォンに録音を残している。晩年はヨーロッパの一流オケに客演し、そのライブ録音がソニーから出ている。オケを渡り歩き、レーベルを渡り歩きながら、ジュリーニはさまざまな録音を残しているが、そのレパートリーは決して広くなく、限られた演目をとことん突き詰めているように感じられる。

指揮姿のジュリーニを見ると、ノーブルな悠揚さとまた別の側面が浮かび上がってくる。烈しさだ。すらりとした長身の立ち姿は、いかにもスマートだが、ひとたび棒を振り出すや、目は見開かれ、長い腕が激情をほとばしらせる。彼の身体がそのままオペラ的な表出となる。情動があふれ出す。

ジュリーニの音楽は遅いほうの部類に入ると思うけれど、彼の遅さは、副次的な産物であるように思う。チェリビダッケの遅さが、倍音を響き合わせ、鉱物的な硬度と透明性を達成するための手段であったとしたら、ジュリーニの遅さは、音楽をひとつに熱く溶け合わせることなく、ポリフォニックな独立性を保ったまま暖かく練り合わせるための手段であった。だからジュリーニの音楽は、中音域が厚く、存在感がある。それはいわば、アルトを基調とする芯の太い音だ。

いつ聞いても楽しめるたぐいの演奏ではない。緻密な濃密を受け入れるだけの余力がないときに聞くと、ジュリーニの音楽は重たすぎる。しかしこの構築性と歌謡性が完全に両立した繊細な手仕事の音楽は、ジュリーニ以外の誰からも聞かれないものでもある。限定したレパートリーであるからこそ、ジュリーニの録音はどれを聞いても外れはないけれども、個人的には、ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』を勧めてみたい。

 

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