うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。Social distancingは「人ごみを避ける」か?

翻訳語考。Social distancingの適切な日本語訳は何だろうかとふと考えてしまう。「人ごみを避ける」という訳がおそらくもっとも自然だろうし、この表現が広く使われているように思う(social distancingの訳語として使われているのかどうかはわからないが)。

しかし、個人的な感覚を言わせてもらうなら、この言い回しはどうも不十分だという気がする。なぜそう感じるのかと考えてみたが、それはきっと、social distancingの根本にあるsocietyのかたち、そうしたsocietyにおけるdistanceのあり方が大きく異なっているからではないかという点に思い至った。

「社会」が明治期の造語であることはよく知られているが、societyの語源であるラテン語のsociusは「同志、友人、仲間」、そして、そうした人々のあいだで結ばれる関係を意味していたらしい。それを間‐主体的なものというのは、さすがに個体性を強調しすぎだと思うけれども、ここに、個のあいだに結ばれる(ある程度まで)水平的なネットワークを思い描いてみるのは、そこまで的外れではないかもしれない。文脈は異なるが、マルセル・モースは「国民論」のなかで、内側からボトムアップで形作られるnationと、上からボトムダウンで創出されるstateを定義していたことが思いだされる。

 

それにたいして、日本語の「社会」には――造語されたときの意識がどうだったかはさておき、現時点においては――「集団としての人々」が想定されているのではないか。「世間」がそうであるように、「社会」にはどこか得体のしれない、顔の見えない部分があるように思う。「人ごみ」という言葉ほど、そうしたのっぺらぼうな不気味さを体現している言葉もないだろう。「人ごみ」を思い浮かべるとき、それを形成するひとりひとりを具体的に想像することはないだろうし、ましてやそのひとびとの顔がはっきり見えてくることはないだろう。だから、「混む」の濁音である「ごみ」から、「ゴミ」を連想してしまったとしても、あながち間違っていないはずだ。*1

こう言ってみてもいい。「わたし」と「社会」や「世間」の関係は、基本的に、排他的であるか(世間の言うことに反対するわたし)、同化的であるか(世間の言うことに従うわたし)という両極端しかない。そうであるからこそ、そこから「距離を取る」ことはイメージしがたい。いわばゼロ距離的な関係であることが社会の成立条件であるからこそ、距離を取ることは、社会そのものの解体にほかならない。

こういう言い方もできるかもしれない。「社会」において、「距離」は、自意識的にコントロールできるパラメーターではないのだ、と。距離が社会構造の屋台骨であるとしたら、社会とは、構成員が勝手に動かない、動こうと思っても動けない柱であることによって初めて安定した建物として成立することになる。距離を取ることは、社会の否定にほかならないし、そうした叛逆行為はほかの成員をも道連れにすることになるだろう。柱が倒れれば家屋が倒壊する可能性もある。

Social distancingは、関係の疎遠化ではないはずだ。人ごみを避けることの裏返しは、引きこもり(これはsocial isolationの訳語として意外と的確であるように思う)かもしれないが、social distancingの裏返しは、必ずしも、social isolationではないだろう。物理的な接触を避けることは、社会的な接触を避けることとは違う。

だからこそ、物理的な距離を保ったまま、これまでとはべつの社会関係を作り出すという試みが、いろいろとなされているのだ。バルコニーで音楽をやるイタリア人のように。劇場がライブストリーミングをやったり、メディアがアーカイブを無料公開したりするのも、それと似たような試みであると言っていいかもしれない(このあたりはもちろん日本でもいろいろ試みられている)。

なるほど、物理的遠距離を隔てて開かれる精神的親密さは、インターネットが拡大させた。しかし、近年におけるSNSの広がりは、それを悪夢のようなものに変えてきた。それに、いまさまざまなところで行われているさまざまな電子的「贈与」――無料公開、無料ダウンロード――に、広告戦略が混ざっていることは否定しがたい。しかしここから、誰かを傷つけたり貶めたりするための結託でもなければ、身勝手な被害者意識が寄り集まることで反転した攻撃性でもない、なにか新しい、距離のある親密さが、自分と同じような状況にいる不特定多数――名前も顔も知らない赤の他人、そのような異邦人からなる群衆――にたいする想像力による共感が、そして、バーチャルな共感によるアクチュアルな連帯が、生まれてこないともかぎらない。

物理的な接触を避けることで逆に生まれてくる新しい社会関係もあるはずだ。 「人ごみを避ける」にある「避ける」という言葉は、そうした新たな創作の可能性、新たに作り出される関係にかかわっていく可能性を、あらかじめ排除してしまっているように感じているから、そこに違和感を覚えるのかもしれない。あまりまとまってはいないが、何となく結論めいたことは言えたので、このテクストはここで終わりにしよう。

 

2020年3月24日付記

social distanceには「社会距離」、social distancingには「社会距離戦略」の訳語が用いられているように感じる。しかし、ここのsocialはやはり、「社会」というよりは「社交」だろう。「社交ダンス」のsocial、「社交界」のsocietyだ。「人付き合いをする」のsocializeのニュアンスが強いと言ってもいい。どちらにせよ、ここでイメージされているのは、「人と人とのあいだ」であって、「集団」ではない。俯瞰的、鳥瞰的な視点ではなく、内側からの、ある特定の限定的なポイントからの視点であるように思う。」

*1:この意味で、日本語の社会はむしろ、社会学者デュルケム――モースはデュルケムの甥にあたる――が想定したような社会よりも、その論敵であったタルドが概念化しようとした群衆のほうに近いのかもしれない。