うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

気負いもなく、気取りもなく:共創造するシャーンドル・ヴェーグの音楽そのものの生命

シャーンドル・ヴェーグの音楽は、あたりまえのように表情が濃い。ひとつひとつの音が極限まで磨き上げられているけれども、アンサンブル全体としての音は、不思議なまでに音離れがよく、密集していない。凝縮しているのに、隙間があって粘らない。

静的な面としてではなく、流動的な線として、フレーズがシンクロしていくからだろう。オーケストラがひとつの楽器であるかのように、そればかりか、たったひとりの奏者がオーケストラというひとつの楽器を完全に掌握しながら奏しているかのような、まとまりのよさがある。

響きのエッジは鋭い。刃物で切り付けられるかのような迫力がある。痛みを感じさせる音。もちろん比喩的な意味ではあるけれども、ヴェーグの音楽の峻厳さには、痛みというもののと切り離せないほどの肉薄した切実さを感じてしまう。

 

ヴェーグは第一次大戦前夜のオーストリア・ハンガリー帝国に生まれ、リスト音楽院でフバイにヴァイオリンを、コダーイに作曲を学び、ソリストとしてのキャリアを歩み始める。1934年、ヴェーグよりひと回り年上のゾルターン・セーケイが設立したハンガリー四重奏団に第二ヴァイオリン奏者として加わったのち、1940年には自らの名前を冠した四重奏団を創設し、母校で教壇に立つことなるが、1946年にはハンガリーを去り、活動拠点を西ヨーロッパに移すことになる。カザルスの招きに応じてプラド音楽祭に参加し、最終的には、ザルツブルグのモーツァルテウムで教えるかたわら、パウムガルトナーが1952年に設立したカメラータ・ザルツブルグの芸術監督に20年近くとどまることになる。

 

ヴェーグの指揮自体は決して上手いものではない。バトンを持たず、要所で控えめに手振りや身振りをする。それだけでも、やりたいことは明確に伝わってくる。しかし、その場の閃きで音楽をドライブしていくタイプではない。仕込んだものを的確に、過不足なく引き出すためにリマインダーを送っているようなニュアンスを感じる。

にもかかわらず、彼の身体の揺らぎはきわめて音楽的だ。ヴァイオリン奏者だから当然と言えば当然だけれど、彼の身体は、指揮する身体というよりは、演奏する身体なのだろう。音楽に寄り添い、音楽を導くように身体が動く。純粋な指揮技術とはまったく別の回路で、ヴェーグの堂々たる体躯は彼の追求する音楽を体現する。

 

ヴェーグの峻厳な音は、ハンガリー系の音楽家がそうであるように、カラフルというよりはモノトーンだが、ニュアンスに富んだ濃淡がある。繊細な糸で巧妙にざっくりと織り込まれた麻生地のように、洗練された素朴さがある。わずかにざらつく手ざわり。抵抗感のある音の肌理が、肉感的なまでの生理的快感を掻き立てる。

入念なリハーサルの賜物だろう。ひとつの音楽集合体がひとりの奏者によって演奏されているかのように聞こえるのは、タイミングのような時間的な要因ではないし、解釈が徹底されているという意識レベルでの共通理解があるから(だけ)でもない。楽器演奏のレベルで、楽器と身体の関係レベルで、オーケストラがひとつになっているのだ。

解釈は凡庸なまでに普通だが、にもかかわらず、いちいち納得させられてしまう。フレーズのふくらませ方やうけわたし方、アウフタクトのキープの仕方からアクセントの切り方まで、どこをとっても「これしかない」と思わされてしまう。もちろん、解釈的にこれが唯一無二というわけではないはずだ。それに、ヴェーグの指揮する音楽はあまりに真っ当すぎて、解釈としては記憶に残りにくい。しかし、あらゆる細部にいたるまで入念に歌いこまれており、ただ音を置きにいっている箇所がない。なるほど、これは、無伴奏曲やピアノとのデュオ、弦楽四重奏ぐらいの小規模なサイズであれば、ギリギリ可能な作業ではある。しかし、これをオーケストラ・サイズで成し遂げるのは、並大抵のことではない。それを、ヴェーグは飄々とやってのける。

おそらく、専業指揮者にはほとんど不可能であるし、楽器演奏者であるだけでも不十分だろう。教える存在である必要がある。音楽を共に奏でることが、自分がすでに持っているものを発揮するだけの機会ではなく、新しいことを学び、学ぶことの愉しさを感じながら、新しいこと実践していくための歓びに充ちた共創造の空間になってはじめて、ヴェーグの音楽が立ち上がってくる。

そうすることで、音に生命を吹き込まれる。吹き込まれた生命によって、音が飛び跳ね、踊り出す。

ヴェーグは、気負いも気取りもなく、強いるでもなく押しつけるでもなく、自発的に音を湧き上がらせる。演奏家の肉体的な生理と、音楽の動的な生命が、アンサンブルのなかでひとつに結びつく。ヴェーグの指揮は、特定の楽曲でも主観的な解釈でもなく、音楽一般の生命そのものを出現させる。

 

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