うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

灯台の光と交錯する視線(ウルフ『灯台へ』I. 11)

「いいえ、そんなことはない。彼が切り抜いた写真のいくつか――冷蔵庫、芝刈り機、燕尾服を着た紳士――をひとつにまとめながら、彼女はそう思った。子どもたちはずっと覚えている。だからこそ、何を言ったか、何をしたかは、とても大切なことなのだ。子どもたちがベッドに入るとき、それが心の慰めになる。いま彼女は誰かのことを考えなくてもよかった。誰にも邪魔されず、自分自身でいられた。そしてそれこそ、いま必要だと感じることが少なからずあったことだった――考えること。いえ、ちがう、考えることでさえない。静かにたたずんでいること。ひとりでいること。あらゆる存在と行為が拡がり、光り輝き、音を発し、霧になって消える。荘厳さを覚えながら縮み上がり、自分自身になる。クサビのかたちをした暗闇の核になる、他人には見えないものになる。編み物をする手を止めることなく、すっと背を伸ばして座ったまま、こんなふうに、彼女は自分自身を感じていた。身にまとわりつくものを脱ぎ捨てた「わたし」は、自由に、奇想天外な冒険に繰り出していく。刹那のあいだ生が深く沈むと、経験の領域を囲っていた限界がなくなったような気がする。この限りない内側の力にたいする感覚は、誰もがいつも持ち合わせているものだ、と彼女は思うのだった。わたしだけではなく、あの人もこの人も、リリーも、オーガスタスも、カーミカエルも。この世に現れているわたしたちの姿、人々はそういうものを見て、わたしたちが誰か見定めるけれども、それは稚拙としか言いようがない。下には暗闇がある。あたり一面に広がっている暗闇は、測り知れないほど深い暗闇。でも、わたしたちはときおり表面に浮かび上がるから、それを見て人々はわたしたちを見分ける。わたしの地平には限りがないような気がする。そこには見たことのない場所がなんでもある。インドの平原。ローマの教会の革の厚いカーテンを押し開ける感覚がある。この暗闇の核はどこにでも行ける、なぜなら、誰も見ていないから。誰かが止めようとしても、止められるものではない、と彼女は昂揚を覚えるのだった。そこには自由があり、平和があり、そしてなによりも喜ばしいことに、さまざまなものがひとつのところに呼び集められ、揺らぐことのない水平な台座のうえで安らぐ。自分を保ったままでは安らぎを見出せなかった経験が彼女にはある(このとき彼女は器用な編み針さばきを求められるところをやりおえた)けれど、暗闇のクサビとしてなら。自我がなくなると、いらだちも、焦燥感も、動揺もなくなる。そこでいつも唇に思わずこみあげてくるものがある。生にたいする勝利の声、それは、この平和、この安らぎ、この永遠のなかで、さまざまなものが一堂に会するときなのだ。そしてそこで彼女は編み物の手を止め、灯台の光、遠くまで届くゆるぎない光を見ようと目線を上げた。三条の光のうちの最後のひとつ、あれはわたしの光。いつもこの時間に、この雰囲気のなかであの三条の光を見つめると、見ているもののなかのひとつにとくに目が行ってしまう。そう、これは、この遠くまで届くゆるぎない光は、わたしの光なのだ。編みものをしている最中に、椅子に座って外を見ている自分を意識することが、しばしばあった。そして、椅子に座って外を見ているうちに、見ているものになってしまう。たとえば、あの光に。そうしていると、彼女の心にひっかかっていたちょっとしたあれこれの言い回しが、浮かび上がってくるのだった。たとえば、「子どもたちは忘れない、子どもたちは忘れない」という言葉を口ずさんでいると、そこに何かを付け足すようになる。終わりは来る、終わりは来る、と彼女は口にした。終わりは来る、終わりは来る、に彼女は突如として付け足した。わたしたちは主の手の中にある。

しかしすぐさま彼女はそんなことを行った自分自身に苛立ちを覚えた。そう言ったのは誰? わたしじゃない。罠にはまって、言うつもりではなかったことを言ってしまった。編み物から目を上げ、灯台の光を見やると、彼女にはまるで、何かを探し求める自分の目が自分自身の目が出会ったかのように思われた。自分の頭や心のなかを探り、そこから嘘を、いかなる嘘をも追いやって浄化するのは、他の誰にもできないこと。光を讃えながら、彼女は自惚れることなく自分自身を讃えていたのである。というのは彼女は厳かであったから。探し求めていた。灯台の光のように美しかった。おかしなことだ、と彼女は思った。ひとりでいると、どうして生きていないモノ――木々、小川、花々――のほうに体が引き寄せられてしまうのだろう。そういうモノたちがワタシの現れであるような気がする。モノたちがワタシになる気がする。ワタシのことを知っていて、そう、ワタシであるような感じがする。そんなふうに(彼女はこの遠くまで届くゆるぎない光を見つめた)理屈ではない優しさを感じる、自分自身にたいして感じるように、そういうモノたちにも。あちらに立ち上がってくるものがあり、視線を向けた彼女の手の編み針の動きは止まっていた。あちらでは、精神の底から波立ち、存在の湖から立ち上がるものがあった。霧。恋人を迎える花嫁。

「わたしたちは主の手の中にある」と言わしめたものはなんだったのだろう、と彼女は不思議に思った。真実のなかにすべり落ちる不誠実さが彼女の神経を逆なでにし、苛立たせた。彼女は編み物に戻った。どうやってこの世界を主が作ったというのだろう、と彼女は自問した。理性も、秩序も、正義もない。あるのは苦しみ、死、貧困だけ――その事実を彼女はいつも心で握りしめた。世界の犯す裏切りのなかでこれほど卑しいものは他にない、ということを彼女は知っていた。どんな幸福も長続きしない、ということを彼女は知っていた。編み物をする彼女には微塵の動揺もなかったが、わずかに唇をすぼめたので、気がつかないうちに、顔が強張って皴が浮かんだ。彼女の夫をして、そばをとおるとき、哲学者のヒュームがとんでもなく太りすぎて、沼にはまったことを思い出して含み笑いを浮かべつつ、そばをとおりすぎながら、彼女の美しさの芯にある厳粛さに気づかずにはいられなくした厳粛な癖であった。それが彼を悲しませ、彼女のよそよそしさに痛みを覚え、とおりすぎるあいだ、彼女を守れないと感じ、生垣のところまで来たときは、哀しさを抱いていた。彼女を助けるためにできることは何一つない。傍観していることしかできない。そうなのだ、状況を悪化させている、それが地獄のような真実だ。自分は怒りっぽい人間だ――扱いにくい人間だ。灯台のことでは思わず怒ってしまった。生垣のなかに視線をやった彼は、絡み合う枝を、奥の暗がりを見つめた。

いつもいつも、気が進まないと思いながら、なにかちょっとしたおかしなもの、終わりがあるもの、なにかしらの音、なにかしらの光景に手が届いて、孤独から抜け出すことになるのだ、とラムゼイ夫人は感じだ。耳をすませたが、どこもかしこもとても静かだ。クリケットは終わった。子どもたちはお風呂に入っている。あるのは海の音だけ。彼女は編み物の手を止め、すこしのあいだ、赤みがかった茶色の靴下を両手で持ち上げた。また光が見えた。呼びかけるような彼女の視線の光はどこか皮肉が入り混じっていた。というのも、本当に目が覚めたときというのは、関係が変わっているものだからだ。彼女が見つめたゆるぎない光は、無慈悲で、後悔とは無縁で、まったく彼女のようでありながら、まったく彼女のようではなく、彼女は、従わざるをえない状態にあった(夜に目が覚めると、その光が床を撫で、折れ曲がるようにして夫婦のベッドに射し込んでいるのが見えた)のだけれど、にもかかわらず、魅了され、金縛りにかけられたように彼女はその光を見つめた。まるで、頭のなかにある封をされた器が、光の銀色の指で撫でられているかのように。脳が破裂しそうで、歓びであふれそうで、幸せというものがわかったのだった。妙なる幸せ、烈しい幸せというものが。そして、日中の陽射しが翳り出すと、荒波を銀色に染め、色調がすこし明るくなり、海から青色が消え、曲がってはふくれあがる澄んだレモン色の波が巻いては転がり、浜で砕け、彼女の目のなかで我を忘れさせる悦びがはじけ、純粋な歓喜が彼女の精神の床のうえを走り、そして、彼女は思った。もう充分。それ以上はいらない。

彼は振り向いて彼女を見た。ああ! 愛らしい。こんなに愛らしいことはなかった、と思った。しかし話しかけることはできなかった。彼女の邪魔はできない。ジェイムズはいなくなり、やっとひとりになっている、話しかけたくてたまらない。しかし、彼は決めたのだった、そうはしない、と。彼女の邪魔はすまい。彼女はいま自身の美しさに包まれて、自身の哀しさに包まれて、遠いところにいる。そのままにしておきたい、だから、彼女がこんなにも遠くを見つめていることに痛みを覚えながらも、無言のまま彼女のそばをとおりすぎた。彼女には手が届かないから、何も助けてやれないから。だから彼は無言のまま彼女のそばをとおりすぎたはずだったのだ。もし、彼女がまさにその瞬間に、彼が決して尋ねはしないことを知っているものを、彼女自らの自由意思から、与えることがなかったとしたら。もし、彼女が彼を呼び止め、額縁から緑のショールを手に取って、彼のところに行かなかったとしたら。というのも、彼女は知っていたから。彼の望みは彼女を守ることだということを。」(ウルフ『灯台へ』I. 11)