うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ピアノの鍵盤のうえで形成されるアンサンブル:クララ・ヴュルツの唯一無二の自由闊達さ

クララ・ヴュルツというピアニストのことはまったく知らないまま、シューマンピアノ曲を聞こうかと思ってYouTubeで「schumann piano」で出てきたBrilliant Classicsのビデオを再生して、一音目からひどく驚かされた。録音のせいかもしれないが、モダンピアノを弾いているはずなのに、ピリオド楽器のような虚ろな響き。豊饒な単色の濃淡。すごい音楽家だと思った。

ピアニストらしくないのだ。ピアノは表現媒体であり、それ以上でもそれ以下でもないかのように、楽器それ自体にたいするフェティシズムを感じない。

音が細かく動く伴奏的なパッセージが弾き飛ばし気味になることがある。混然一体となった音の波のなかに個々の音が埋没してしまうことがある。強引な急加速がある。突然の厳しいアクセントがある。

すべて「あえて」のことなのだ。音の単純な明晰さを犠牲にして、表現を拡張しようとする。表現主義的な過激さや過剰さ。ソリスト的な感性に逆らうはずの方向性が、戦略的に選び取られている。

技術的な不作為ではない。対位法的な絡み合い、多声的な重なり合いはきわめてクリアなのだ。音の粒立ちや立ち上がりが音域で異なるという音響の物理的性質を踏まえて、声部の音量やアーティキュレーションを調整しているのかもしれない。まるで別人の手が弾いているかのように、和音のひとつひとつ、声部のひとつひとつが、それぞれ独立した音として立ち上がってくる。

どこかグールド的だが、グールドがいわば純粋に幾何学的な直線的な運動として、一定の太さの線を引くようなところがあるとすると、クララ・ヴュルツは太さの変化する自由闊達なフリーハンドな線を描くところが違う。ジャズのピアノのような感じすらある。

英語版ウィキペディアにはエントリーがなく、ドイツ語フランス語オランダ語ハンガリー語だけ。フランス語版によれば、1965年のブダペスト生まれ。共産党政権時代の幼少期は、ピアノのレッスンをうけるかたわらで、ハンガリー放送局の児童合唱団のメンバーとして他国に演奏旅行に出かけている。1979年にフランツ・リスト音楽院に入学し、ゾルターン・コチシュやジョルジュ・クルターグなどに学ぶ。90年代は室内楽に取り組み、アメリカ合衆国に演奏旅行。1996年からはアムステルダム在住。1995年に立ち上げられたばかりのBrilliant Classicsの芸術監督にしてピアニストでもあるPeter van Winkelの誘いで、モーツァルト全集のためにピアノソナタ全集を録音。Winkelとはのちに結婚し、2004年に娘を出産し、1年のあいだ演奏活動を休止。「トップ・ピアニスト un top-pianiste」になろうという野心はない、とのこと。

なんとも不思議な音楽を作る人だ。構えは大きいが、大きすぎたりはしない。リズム感は正確だが、機械的ではなく、自由に弾み、自由に揺れる。しかし、ピリオド楽器奏者がよくやるような、様式化された外しではない。両手を無理に揃えるのでも、あえてずらすのでもなく、微妙なズレを抱え込みながら両手が自然に揃う。

自然な音楽作りではなく、作為的なところであふれかえっている。だというのに、最終的に聞こえてくる音楽はきわめて説得的。独創的な作曲家にはかならずある独特のアクを、中和しすぎない絶妙の加減で昇華している。

ピアノをオーケストラ的に演奏すると、こんな音楽になるかもしれない。だからクララ・ヴュルツを指揮者的なピアニスト、自ら演奏する指揮者に例えてみたくなる。彼女のなかにいる複数の演奏家が、ピアノの鍵盤のうえでひとつのアンサンブルを形成する。

 

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