うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

言語習得という驚異と奇跡:白畑知彦『英語教師がおさえておきたいことばの基礎的知識』)

人間は、2つの要素を組み合わせることによって、限りなく長い文を作り出すことができるという性質を持っているのです。ですから、人間言語には「最も長い文」というものは存在しない、ということになります。(白畑知彦『英語教師がおさえておきたいことばの基礎的知識』120頁)

白畑知彦『英語教師がおさえておきたいことばの基礎的知識』は、英語を教える側を念頭に書かれた本ではあるけれど、英語学習者一般にも推薦できる好著だ。200頁をすこし越えるぐらいの小著ながら、現時点の世界における英語の位置づけ、英語の歴史、英語の地域的なバリーション、英語という言語の音声的特徴にはじまり、第二言語習得論の一般的な解説から、チョムスキーの普遍文法までをカバーし、一般的な言語習得過程と、母語から持ち込まれるものを踏まえたうえで、どのような英語教育法が適切なのかを、ポイントを押さえながら、きわめて要領よく、すっきりとまとめている。

著者が普遍文法の側に立つ研究者であることはまちがいないだろう。それに、小学校の英語教育についても一過言持っている(現状のやり方では、劇的な英語力の向上は望めないだろう)。明確な英語教育観の持ち主であり、言語習得をめぐる理論的な立ち位置は明確だ。にもかかわらず、それを絶対的なものとして押し付けようとはしない。私見は明言するが、それは、フェアに議論を進めるためである。

柔軟な批判精神があることは、結論部分で、「他人の言う教授/第二言語習得理論・主張を鵜呑みにしないで、最終的には自分でよく考え結論を出して欲しい」と言い切り、彼自身の主張にしても「疑いながら読むとちょうど良いかもしれません」と笑いめかしながら念押ししていることからうかがえる(217頁)。文体にはそこはかとないユーモアもある。そのおかげで本書はリラックスしたムードがただよっており、真面目な内容であるというのに、ひじょうに愉しい本になっている。

著者の言語にたいする態度のうち顕著なところをふたつ上げるとすれば、ひとつは、わたしたちの言語習得能力にたいする驚きになるだろう。著者はチョムスキーの普遍文法の側に立つようだが、本書での議論は、わたしたちのなかに生得的な言語習得能力があるという仮説から始まるのではない。そうではなく、なぜわたしたちは完全なインプットを受けるわけではないのに(わたしたちは母語であれ異言語であれ、すべての文法規則を完璧なかたちで教えられるわけではない)、にもかかわらず、言語を正しく運用することができるのだろうか、という驚嘆混じりの疑問が、著者の出発点にあるのではないだろうか*1。その意味で、チョムスキー理論は、著者にとって、教義ではないのだろう。そうではなく、有用な作業仮説という扱いではないのかという気がする。著者をチョムスキー派と呼ぶことはできるかもしれないが、チョムスキー信者と呼ぶことは的外れであるように思う。*2

もうひとつは、比較論的な方向性だ。英語を特権化するのではなく、世界の言語のなかに適切に位置付けることをとおして、現代における英語のグローバルな広がりを再確認しつつも、英語という言語それ自体はかならずしも世界の言語の典型例ではないことをわたしたちに示してくれる。たとえば、言語の語順で言えば、英語のようなSVO(主語、動詞、目的語の順番)は世界の言語の32%にしか当てはまらず、日本語のようなSOV(主語、目的語、動詞)のほうが48%になる点(26頁)。または、母音の数で言えば、日本語のように5つの母音を持つ言語が世界で最も多いパターンであるという点(95頁)。*3

著者の驚きを大切にする態度は、言語習得を、知的好奇心を誘うミステリーに変え、そのようなミステリーにもかかわらずわたしたちが言語を(ある程度までは)習得できてしまうという奇跡をわたしたちにあらためて気づかせてくれる。

母語獲得の最終到達度は「みな一律」であるのに、なぜ第二言語習得になると、最終到達度にこれほどのバラつきが見られるのかという問いは、とても興味深い。たしかに、勉強にたいするやる気であるとか、言語に触れる時間が違うとか、それらしい説明を上げることは誰でも出来るけれど、はたしてそれは本当に正しいのか。そして、著者にとって、このような問いは決してそれ単体で完結するものではなく、つねに、もし仮にそうだとしたら、どのような英語教授法が有効なのか、という実際的な英語教育の問題と連結されなければならないものである。*4理論と実践が適切なバランスでつねに適切に切り結ばれているところに、心地よい緊張感がある。

本書から、明日の授業ですぐに使えるレッスンプランがすぐさま引き出せるわけではない。本書が目指すのは、英語と言う言語の特性を理解し、母語の文法や音声との違いから必然的に起こってしまう転移を踏まえ、現代における英語の在り方を念頭に置いたうえで、日本語話者が学ぶべき英語が何かという、原理的ではあるけれど、教育現場に決定的なかたちで跳ね返ってくる問いを考え抜くための手がかりを提供することであり、そうしたラディカルな批判精神を身につけることによって、プラクティカルな問題——日本における、日本語話者にたいする、効果的な英語教育——にわたしたちがひとりひとり立ち向かっていくためのお手伝いをすることである。

本書が最後のところで、「いろいろな学会に参加してみてはいかがですか」(217頁)と締めくくっているのは、英語教育を学問化するためではない。そうではなくて、英語教育を共同的な行為に開いていくためには、ひとりでやるのではなく、みんなでやっていくのが効果的だろうという著者の意見である。

それはつまり、英語教育というものが、つねにすでに、言語研究を含みこむものだからだ。英語を学ぶ/教えることは、日本語を問い直すことであり、言語的動物であるわたしたち人間存在を考え直すという営為につながっているからだ。

*1:さらに言えば、著者は、言語習得の段階が、日本語であれ英語であれ、同じ段階――クーニング、喃語、一語、二語、多語——をたどるという普遍的事象についても、同じような驚きを表明し、知的好奇心くすぐられているように見える。

*2:たとえば、文脈はちがうが、一般問題解決能力 PS-system (problem solving system) と言語専有の認知能力 LS-system (langauge specific system) ――チョムスキーのUniversal Grammarとほぼ同義の能力——の競合の問題を論じながら、両者を対立的にとらえるよりも、補完的に捉える「補填モデル(Supplement Model)」という第三の路線を提唱する、つまり、理論的に純粋な極論に走るのではなく、柔軟に折衷論を探っていこうとする態度(209‐14頁)は、筆者の基本的なスタンスを表しているように思う。

*3:個人的にひじょうに興味深いと思ったのは、言語を習得していくなかで、語順の感覚はかなり早いうちに獲得される(二語の段階でも、英語話者は動詞、目的語の順番で話し、日本語話者は目的語、動詞の順番で話すにもかかわらず、日本語話者が英語を学ぶなかで、英語を日本語の語順で使ってしまうという母語転移は必ずしも起こらない、という点だ(172頁)。語順はわたしたちの言語習得における本質的な部分であるらしいのに(とくに、チョムスキー派はそのあたりを重視しているように見える)、それが第二言語習得における足かせになるとは限らない、語順は他言語習得における高すぎるハードルというわけではないというのは、とても不思議な感じはする。

*4:「意識的、分析的に言語を学習する方法が思春期以降の学習者では重要となるのです」(213頁)というのは、著者の教育観を端的に要約する部分かもしれない。つまり、わたしたちが言語を学習するメカニズムがわかれば、そのメカニズムと相性のいい教授法を考案することも可能であるし、そのためにこそ、言語そのものや、言語習得の過程を、きちんと分析していかなければならないのだ、という態度である。