うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

文化と想像力の危機としての気候変動の危機(ゴーシュ『大いなる錯乱』)

第一部 物語

気候変動の危機はまた、文化の危機であり、したがって、想像力の危機でもあるのだ。[. . . the climate crisis is also a crisis of culture, and thus of the imagination.](16‐17 [9] 頁 )

 

環境をめぐる〈不気味なもの〉は、超自然な不気味さとは似て非なるものだ。その違いは、まさに、前者が人間ならざる(ノン・ヒューマン)諸力・諸存在にかかわる点にある。(55頁)

 

気候変動によって引き起こされる出来事の不気味さ[…]今日わたしたちが経験している奇怪な天候事象は、それがいかに徹底的に非‐人間的(ノン・ヒューマン)な性質の物であろうとも、人間の行為の蓄積によって生じたものであるということだ。その意味では、地球温暖化によって引き起こされる諸事象は、わたしたちがみな多かれ少なかれその発生になんらかのかたちで寄与しているという点で、むかしにくらべて人間とより親密な関係をもっていると言える。自分の手でこしらえたあやし(55頁)げな創造物が、まったく思いもつかなかったような姿かたちとなって舞い戻り、わたしたちにとりつくようなものなのだ。(56頁)

 

人間存在のよるべなさへの自覚は、あらゆる文化に見いだすことができる。[…]では、こういった直観が、植民都市建設者たちの精神からだけでなく、文学的想像力の最先端からも退いてしまったのは、なぜなのだろう。西洋においてさえ、近代の到来からずいぶんと時間が経ってからやっと、大地は秩序正しく穏やかなものと見なされるようになった。詩人や作家たちにとって、「崇高」の観念と結びついた畏怖の念を惹起する力を〈自然〉が失うのは、一九世紀も終わりごろになってからにすぎないのだ。(93頁)

 

そう考えてみると、人間ならざる諸存在の行為主体性をめぐる謎の実体は、それが〔最近になって〕あらためて認知されるようになったことにあるのではなく、むしろ、それへの気づきがそもそもどうやって——すくなくともここ二~三世紀のあいだ支配的であった思考や表現の様式の範囲内(109頁)では——抑圧されるに至ったのか、というところにある。このプロセスにおいて、文学の諸形態は、あきらかに重要な、おそらくは決定的な役割を演じてきた。であるから、わたしが最初に掲げた前提、すなわち、人新世によってわたしたちは、わたしたちの肩ごしにまったき意識をもって世界をみつめている〈他なる〉まなざしの存在を認知=再認せざるをえなくなっているという前提を、しばし真にうけてみるならば、まっさきにとび出してくる問いは以下のようなものとなるだろう——近代小説における人間ならざるものの地位=場所(プレイス)とは、どのようなものであるのか。

 この問いに答えようとすると、また別の、人新世がもたらす不気味な効果に向き合うはめになる。それは、文学的想像力が人間へとその照準を劇的に移動させた時期〔=近代小説の誕生〕と、人間の活動が地球の大気に変化を生じさせはじめた時期〔=人新世〕とがぴったりと重なる、という事実のことだ。そうなると、人間ならざるものが小説の中心に描かれることが仮にあったとしても、それは真剣な小説(シリアス・フィクション)の豪邸のなかでというわけにはいかず、むしろ、その邸宅から放り出されたSFやファンタジーが住まう周辺部に散在する小屋においての話となるのだった。(110頁)

 

第三部 政治

フィクションが——この言葉によってわたしは小説だけでなく抒情詩や神話も指している——可能にすることは、世界が現状とは別様である〈かのように〉想像するために、仮定法のかたちで世界に接近することである。要するに、フィクションがもつ重要で替えの利かない潜在的な力は、さまざまな可能性を想像することを可能にすることにあるのだ。そして、人類の生存にかんして別のかたちがありうることを想像するのが、まさに気候変動によってつきつけられた難題(チャレンジ)なのだ。なぜなら、地球温暖化がみごとにあきらかにしたことがひとつあるとするならば、それは、世界をただ現状のあるがままに考えることは集団的自殺の方程式をなぞることにつながる、ということだからだ。わたしたちは、むしろ世界がそうありうるかもしれない状態を想像すべきなのだ。しかし、人新世をめぐる他の多くの〈不気味〉なことがらとおなじように、この難題(チャレンジ)がわたしたちの目前にあらわれたのは人新世に応答するのにもっとも適した想像の形式——フィクション——が根本的にことなる方向へと舵を切ったまさにその時であったのだ。

 つまり、ここには「個人の〈モラル〉をめぐる冒険」という観点からフィクションや政治を理解することの逆説とその代償がある——それは、可能性そのものを否定するのだ。人間ならざるもの(ノン・ヒューマン)についていえば、ほぼその定義からして、主体性を神聖視して政治的な主張が一人称でなされる政治から締め出されている。(210頁)

 

著者インタビュー

スタインベックのような作家はその時点でなにが可能であったのかを書き残すことで、わたしたちに道を示してくれていると思います。〔「先進国」の〕現代文学についてわたしが強く感じるのは、現代作家のあまりに多くが、スタインベックのように〈自然〉や〈世界〉に真正面から取り組むことに背を向けているという事実です。そして、そのような傾向が全面化してくる時期と温室効果ガス排出量が急増した時期とが重なることは、けっして偶然ではないと思うのです。(280頁)

 

アメリカの小説で用いられるメタファーについて考えてみてください。それは、ほとんどの場合、プラダを着たとかフォード車に乗ったとかいった。商品(コモディティ)のメタファーです。木や森や動物が中核的なメタファーになることは、まずありません。アメリカ文学における商品あるいは商品化のメタファーの浸透ぶりには目をみはるものがあります。(280頁)

 

281 インタビューアーの応答:大江健三郎と木のメタファー、村上春樹と商品のメタファー

 

たんなるドキュメンタリーではなく、その現実に密着した記述が小説という形式をとることによって超越的なアレゴリーの域に到達していることがこういった作品[引用者註:スタインベックの『怒りのぶどう』やメルヴィルの『白鯨』『レッドバーン』]の真の偉大さだと、わたしは思うのです。(282頁)

 

スタインベックは、日本だけでなくアジア全域において、二〇世紀アメリカが生んだもっとも影響力のある作家であると言っても過言ではないのではないでしょうか。それが文学界において脇に追いやられていくその過程自体が、考察にあたいするものだと思います。(283頁)