うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ゴシップとメタフィクション的な冒険:ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』(東京創元社、2020)

ロラン・バルトの死をめぐる探偵小説。そこに、80年代のフランスの政治をめぐる問題が絡んでくる。記号学に精通した大学教員と刑事の捜査は、フランスからアメリカからイタリアへと及んでいく。20世紀後半を代表するフランス知識人や、フレンチ・セオリーに傾倒したり敵対したりするアメリカの大学人が多数登場する。フーコーソレルスクリステヴァエーコなどなど。ローラン・ビネの『言語の七番目の機能』は、そのあたりのことを知っていればいるほど、読み進むほどにニヤリとさせられる小説だ。

フランス的なものが核にあり、まさにそうしたものがここで諷刺の俎上に載せられているわけだけれど、同時に、80年代のフランスにおけるアラブ系移民のプレゼンスがクローズアップされてもいる。ところどころで無名の日本人たちが登場するのも興味深い。大物にたいするあけすけなあてこすりはあるし、共産圏の人々にたいする穿った疑いのまなざしはあるけれど、移民的存在にたいしてはそうしたアグレッシブさはないように感じられた。裏を返せば、ビネのターゲットは、フランス的なもの、その延長としてのヨーロッパ的なものにあると言うべきだろうか。

ローマン・ヤコブソンは言語の六つの機能を提唱したが、実は七番目の機能があり、ヤコブソンの未発表論文の争奪戦がこの小説のバックボーンをなす。その争奪戦の捜査を担当するのは一匹狼的なジャック・バイヤール警視だが、知的遊戯にたいして本能的な敵意を感じた彼は、ヴァンセンヌ記号学の講義を受け持っていた講師のシモン・エルゾグを捕まえて、相棒に仕立て上げていく。エルゾグは大学で記号学を教えてはいるものの、「専門は現代文学で、歴史小説についての論文で専門研究課程修了証書(DEA)を取得」している(38頁)。しかし、彼の記号学の知識とその応用はきわめてシャーロック・ホームズ的だ。バルトたちによって花開いた記号学シャーロック・ホームズ研究に適応されていったことを知っていれば、エルゾグのキャラクター造形はきわめて的を射ていると言える。

この点で、『言語の七番目の機能』はウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を思い出させる。『薔薇の名前』は、アリストテレスの『詩学』の失われたテクストである喜劇論をめぐるメタ的な中世歴史物語だったが、ビネの小説もそれと同じジャンルに入るものである。

しかし、ここでは、小説の背景となる歴史的文脈が、実際の過去と重なるものでありながら、それをベースに創作したものであることが次第に明らかになっていく。バルトの交通事故死になにか裏幕があったのではないかという連想は、読者のほうに歴史のifを突きつける。とはいえ、この時点ではまだビネの物語が隠された真実を暴こうとするたぐいのものなのか、それとも完全に創作的な虚構を描いているのか、にわかには判別しがたいところもある。というのも、ヴァンセンヌを訪れたバイヤールが見かける大学構内のポスターや落書きは相当リアルに見えるからだ。

「教授、学生、講師、事務職員たちよ、くたばれ、裏切り者!」、「食糧スークの閉鎖に反対、「ヴァンセンヌからノジャンへの移転反対」、「ヴァンセンヌからマルヌ=ラ=ヴァレへの移転反対「ヴァンセンヌからサヴィニ=シュル=オルジュへの移転反対」、「プロレタリア革命万歳」、「イラン革命万歳」、「毛沢東=ファッショ」、「トロツキスト=スターリニスト」、「ラカン=サツ」、「バディウ=ナチ」、「アルチュセール=人殺し」、「ドゥルーズ=母ちゃんと寝てろ」、「シクスー=オレと寝ないか」、「フーコー=ホメイニのスケ」、「バルト=中国びいきの裏切り者」、「カリクレス=SS」、「禁止することを禁止することは禁止されている」、「左翼連合=最悪」、「うちに来て、資本論を読もう! 署名:バリバール」。マリファナのにおいをぷんぷんさせている学生たちが寄ってきて、むやみやたらにビラを押しつけてくる。「同志よ、チリで何が起こっているか、知ってるか? エルサルバドルは? アルゼンチンで起こっていることに自分も関わりがあるとは思わないか? モザンビークはどうだ? モザンビークなんて自分の知ったことじゃないと思ってるだろ? どにあるか知ってるか? じゃ、ティモールの話ならどうが? せめてニカラグアの識字運動のためにカンパしてくれよ。コーヒー一杯おごってkるえないか?」こんなことぐらいで驚きはしないと彼は思った。若い頃「若い国民」に所属していたときには、この種の薄汚れた左翼のチビどもを思い切り張り倒したことがあるのだ。彼はビラをすべて屑入れ代わりの水盤のなかに放り込んだ。(33頁)

しかし、雄弁の才を競う地下バトル「ロゴス・クラブ」のプロットが表面化してくると、さすがにこれは創作なのだろうとわかってくるし、アメリカでデリダが殺されるという箇所までくると、これは歴史メタフィクションというよりも、現実をネタにした諷刺小説なのだということが見えてくる。

とはいえ、この小説に登場する知識人たちが語ることは、ビネの捏造ではないはずだ。たとえば、バイヤールはシイモンの勧めに従って、ブルガリア出身のツヴェタン・トドロフにところに話を聞きにやってくるが、そこで地の文はトドロフを次のように記述する。

全体主義の国で生まれ育ったことが、彼のうちにとても強い人道主義の意識を発展させたらしく、言語理論にまでそれが表れている。たとえば、レトリックというものは実際には民主主義のなかでしか開花することはないと彼は考える。なぜならば、君主制専制国家においては本質的に提供されることのない討論の場を必要とするからである。その証拠として、まずは帝政ローマにおいて、ついで中世ヨーロッパにおいても、弁論術は相手を説得するという目的を失い、相手を受容することに焦点を当てることをやめ、言葉そのものに引きこもっていくと主張している。そうなると弁術に期待されるのは有効性ではなく、たんに美しければいいということになる。政治上の問題が、純然たる審美上の問題に取って代わられてしまうのだ。言い換えれば、修辞学は詩学となるわけだ(つまり第二の修辞学と呼び習わされてきたものを指す)。(168‐69頁)

そこまで網羅的にトドロフの書いたものを読んではいないけれど、この要約はトドロフの問題意識を的確にとらえているし、いかにも彼が言いそうなことでもある。つまり、ここでビネはフランス知識人たちを決して好意的に扱ったりはしないけれど、だからといって、彼ら彼女らの思想を歪めて提示しようとしているわけではない。おおむね客観的に概要を示したうえで、それを、批判的なかたちでプロットに取り込んでいくのだ。

この小説においてもっとも重要な学問分野は弁論術だが、それは、審美上のものであると同時に、政治上のものである。ロゴス・クラブにおける雄弁合戦は、詭弁的なものに傾きがちなものではあるが、そこでは名誉や自らの肉体の一部――敗者は指先を切り落とされたり、分を過ぎた挑戦をして敗北すれば、それ以上の部位を失ったりする――が賭けられる。エピグラフに掲げられているデリダの言葉――代弁しながら、自分の利益は忘れないこと――は、その意味で、きわめて示唆的だ。言葉は言葉として自立するかもしれないが、そこに表出してしまう意図、表出することで初めて意図として形成されるようなものは、誰/どこに起因するのものなのか。そう問うことは、弁論の問題を審美的なものとして、閉じたものとして扱うことを拒否することだろう。

もしこの小説のメインプロットになっていくロゴス・クラブにおける演説バトルが、小説世界におけるアングラ世界だとすると、そこにおける表舞台――しかし、小説においては間接的に、サブプロット的にしか描かれることのないもの――はフランス大統領選である。ここで問題化されているのは、フランスの政治それ自体だけではなく、フランスの左翼知識人の政治コミットメントの問題なのだと思うが、『言葉の七番目の機能』は必ずしもその方向には収斂しない。

では、どこに収斂するのか。

この小説は「人生は小説ではない」(7頁)というきわめてメタフィクション的な一文ではじまる。そして、エピローグにおいてエルゾグが死の危険にさらされると、そこで彼は現代文学、歴史文学を専門とする研究者よろしく、自分の人生は、もしかすると存在するかもしれない神的な小説家の手の内にあり、すでにプロットは決まっているのかと自らに問いながら、それを否定する。

奇跡など起こるはずがない。でも、これが小説であるなしにかかわらず、自分がただ人のなすがままに何もしないで終わったなどとは言われたくないのだ。シモンは救済など信じてはいないし、この世でなすべき使命があるとも思っていないけれども、その逆に、この世にはあらかじめ定められていることは何もないと信じているし、たとえば自分が残酷で気まぐれな小説家の手の内にあるとしても、自分の運命はまだ定まってはいない。

今はまだ。

この仮定の小説家に対しては、神に対するのと同じようにしなければならない。つねに、あたかも神が存在しないかのごとくに振る舞わなければならないのだ。なぜならば、神が存在するとしても、それはせいぜいお粗末な小説家のようなものであり、尊敬するにも従うにも値しないからだ。歴史=物語の流れを変えようとするにあたって、もう手遅れだということは決してない。ひょっとすると、想像上の小説家はまだ決断を下していないのかもしれない。ひょっとすると、結末は小説の登場人物の手に託されているかもしれないし、僕は僕自身の物語の主人公なのだ。(467‐68頁)

だとすれば、この小説が試みているのは、先行するフランス知識人を諷刺することで、象徴的な神殺しを上演することであり、そうすることで、自らの運命を自ら決める自由をいまいちど取り戻すことであった、と言うべきかもしれない。

 

問題は、それが「小説」としてうまくいっているかどうかだ。

この小説の下世話な面白さが、知識人たちの性生活についてのゴシップ的な部分にあることは、おそらく多くの読者が賛同するところだろう。知識人たちの知的活動についての描写は、専門的な知識を持ち合わせている層には面白いが、そうでない層からすると、バイヤールのように、本能的な敵意を感じるところかもしれない。それらの背景となる80年前後のフランスの政治的社会的状況となると、さらにわかりづらいのではないか。

エルゾグを主人公とするメタフィクション的な冒険物語は、そうした文脈にかならずしも依存してはいないけれど、そこから自立しているわけではない。というよりも、エルゾグというキャラクターがそこまでキャラとしてそこまで立っていないため、最後の大詰めにしても、読者として、どこか醒めた感じで眺めてしまう。小説の記述としても、フランス知識人にまつわるあたりはかなりぶ厚いのに、エルゾグの物語は短めのパラグラフやセンテンスでたたみかけていくような感じになっている部分がある。小説家の狙いはわかるが、その結果、エルゾグの魅力はいまひとつ伝わらない。むしろバイヤールのほうがキャラとして魅力的ではないか。

このあたりのバランスがいまひとつに感じる。

 

翻訳はこなれており、フランス知識人の思想や哲学からの引用のような箇所についても、スムーズに読み通せる訳になっている。ただ、ジョナサン・カラーがフランス語読みで「ジョナサン・キュラー」となっているのは、純粋にわかりにくい。カラーはいくつも邦訳があるのだから、この瑕疵はむしろ不可思議。訳者の問題というよりは、編集者の手落ちだろうか。