うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230110 ユクスキュルの『生物から見た世界』をAmazon Kindleで読む

いつからAmazon Kindle岩波文庫が読めるようになっていたのだろう。Unlimitedで読めるものも少なからずある。というわけで、読もうかと思いながらこれまで読まずにきていたユクスキュルを読んでみる。

 

ここでの問いは、世界はどのように存在しているのかではないか。世界が在ることは疑われていないようだが、「どのように」在るのかは、わたしたちが思っているほど明白なことではない。「生物学は環世界説で主体の決定的な役割を強調することによって、カントの学説を自然科学的に活用しようとするものである」(23頁)と序章で述べているが、それはつまり、本書が、動植物の認識論であることを告げている。

カントの認識論は3段仕立てになっている。五感でのインプット、悟性と理性。五感で認識したものを、悟性が分別し整理し、理性が統御する。ここでは、時間と空間というカテゴリーが、アプリオリに存在している。カントに言わせれば、たとえわたしたちの具体的な認識内容は異なるとしても、そのプロセスやメカニズムは同一であり、その意味でわたしたちはともに普遍的かつ必然なものを備えているのであり、まったく偶然的なもののたんなる寄せ集めではないということになる。

ユクスキュルは、動植物が、人間とは異なる認識メカニズムを備えており、したがって、動植物が感知する世界は、人間が感知する世界とは決定的に異なることを、ひじょうに興味深い具体例とともに示そうとする。たとえば、18年間ものあいだ、通りがかる哺乳類を待ち構えて絶食することができるノミにとっての時間は、人間の時間とは決定的に異なるものである。

世界はあるだろうし、時間はあるだろう。しかし、それはつねに、「誰の」という所有格なしには語ることができない。人間もノミも、人間目線から言えば、同じ空間のなかにおり、両者のまわりでは同じ長さの時間が流れていると言えるだろう。しかし、「ノミの」世界や時間、ノミが認識する世界や時間、ノミの認識内部に立ち上がる世界像や時間像は、人間のそれとは同じではない。

 

ユクスキュルの自然科学へのカント学説の応用は、ある意味、独我論的な方向に傾いていく。認識できないものは存在しないも同様である。

ただし、それはあくまで、ある動物にとってそうだというだけで、べつの動物にとってはそうではない。ある動物にとっては、動いていないものはどれだけ近くにあっても認識対象として立ち上がってこないかもしれないが、人間にはその両者が認識できている。

 

だからといって、ユクスキュルは人間の認識のほうが動植物よりも優れているというような議論はしていないようである。彼が主張するのは、種はそれぞれ異なった認識メカニズムを備えていること、その結果、認識される世界はそれぞれに異なっていることであり、そのような差異を序列に返還しようとはしない。

というよりも、ユクスキュルがここで異論を唱えるのは、動植物の行動はたんなる反射にすぎないという、動植物を主体性のない機械のように捉える立場だ。序章で出てくる専門用語がわかりづらいところだが、ユクスキュルが支持するのは、15頁のように外界からの刺激がそのまま外界への行動につながるようなプロセスではなく、20頁のようにフィードバックを取り込める円環上のプロセスをなのだろう。ユクスキュルにしてみれば、すべての動植物は、それぞれ独自なかたちで主体なのである。この意味で、主体の在り方はさまざまでありえる。人間のような主体だけがこの世における唯一の主体の可能性というわけではまったくない。


UmgebungとUmweltが、ドイツ語のニュアンスとしてどう異なるのかは、いまひとつピンとこない。どちらも「環境」を意味する言葉ではあるらしい。邦訳では、前者が「環境」、後者が「環世界」となっている。

語源的には、Umgebungumgeben(um [around] + geben [give] = 取り囲む [surround])に、名詞を作る接尾辞 -ung が付いたもので、Umwelt は um + Welt [world] になる。どちらも um (周囲の)がイメージとしてある。

ただし、ユクスキュルの議論をふまえて補うなら、Umgebungのほうは、客観的に存在する環境(わたしを取り巻いている、わたしを取り囲んでいる環境)であり、主語は環境なのだろう。環境「が」わたし「を」取り囲んでいる。その一方で、Umwelt の場合、わたし「の」周りにある世界であり、基点となるのは環境ではなく、そのなかにいるわたしのほうである。

この点において、ユクスキュルとハイデガーに通底するものがあるのは、なんとなくわかる。Umweltは、ハイデガーがいうところの、In-der-Welt-sein(世界内存在)と同じ系列の考え方なのだろう。まず世界があってそのあとに存在があるのでもなければ、存在があるから世界があるわけでもなく(それは純粋な独我論である)、存在と世界は同時的に存在する。


本書でのユクスキュルの議論は、基本的に、異種の動植物や人間の比較をとおして行われるが、後半に行くにしたがって、同種の個体のUmwelt(環世界)の多様性も浮き彫りになってくる。というのも、環世界は、これが「自由な主観的産物」(132頁)であり、「主体の個人的体験が繰り返されるにつれて形成されていくもの」(132頁)だからだ。「家 Heim」というよりも「故郷 Heimat」に喩えられるものである。空間的には同じ場所であれ、そこを知っている人と知らない人には、別の世界として見えてくる。「なじみの道」と題された8章がその意味ではひじょうにわかりやすい。

だとすれば、はたしてわたしたちは、認識を共有することはできるのだろうか。世界を共有することはできるのだろうか。なにせ、わたしたちひとりひとりの「環世界」は、たとえ認識メカニズムやプロセスという形式レベルにおいては同一であるとしても、その内容についてはまったく多様であるのだから。「いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界が主観的現実にほかならない」(143頁)。

 

どうなのだろう。わたしたちは、決して相容れることのない互いの主観的現実を前にして、永久にわかりあえないのだろうか。

ユクスキュルはその点について本書では明確な結論を提示していないように思うが、主観の世界に無限に後退することはないだろうとは述べている。というのも、わたしたちの環世界の源泉には「自然」があるからだ。ユクスキュルにとっての「自然」は、カントにとっての「物自体」なのかもしれない。どちらも、それ自体としては認識不可能なものではあるが、にもかかわらず、それが存在することは疑いを入れない。