うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「私たちは皆で一緒に世界を築くことができる」: ティム・インゴルド、奥野克己・宮崎幸子 訳『人類学とは何か』(亜紀書房、2020)

人類学は世界-他者「とともに」考える哲学であって、いわゆる哲学のような世界-他者「について」の哲学ではないとティム・インゴルドが挑発的に述べるとき、彼はある意味で、ヘーゲルが『精神現象学』の序文で述べたことを敷衍しているとも言える。認識される対象は、認識する主体から切り離すことはできない。認識されたものから、認識者を差し引くことはできない。なぜなら認識者はつねにすでに認識されたものの一部であり、それなしにはそのような認識がそもそも生れえなかった媒体であるからだ。方法論的に認識主体を消去することはできない。それはつまり、他者と自らを切り離すことはできない、自らを他者と切り離された安全な地点に置くことできないということでもある。人類学は不可避的に主観的なものを含むのであり、だからこそそれは客観性を謳うような「データ収集」と同一視されてはならないのだ。 

知識への希求ではなく、「気づかい(care)の倫理」(148頁)こそが、人類学者を駆り立てる究極的なものであるとインゴルドは述べる。他者とともにあること、他者にたいする敬意と真剣さが、人類学の根幹にあり、人類学の営みそのものを定義しているのだ。だからインゴルドは、「について」と「である」を区別し、後者に立つ。操作を可能にする距離、モノとして相手を思いどおりにするための隔たりを、インゴルドは、系統的に退けていく。こう考えていくと、人類学は倫理的でしかありえないことが見えてくる。

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デヴィッド・グレーバーの『アナキスト人類学のための断章』と同系統の本と言ってもいい。コンパクトだが、芯が通っている。人類学という自らがコミットする学問領域にたいして批判的でありながら、その系譜を真正面から受け止め、功罪含めて引き受けようとする。だからインゴルドの議論は、学際的であると同時に、人類学それ自体の歴史を扱うのだろう。自らを意識的に問い直すことなしには、人類学の可能性――「人間という概念を越えていくこと」(40頁)、「人間存在(human being)を人間であること(being human)にもう一度結びつけながら、しかも生きられる経験をけっして見失わない学」(68頁)――を十全に引き出すことはできないからだ。

この本にはインゴルド自身の知的自伝の側面もある。彼が自然と文化の接合面を探るなか、「社会関係をもつことと有機体であることは、人間存在の二つの面なのではなく、同じ一つのものだということ」(110頁)に悟るくだりは、感動的ですらある。インゴルドはハイデガーを思い起こさせるようなフレーズでこれを次のように語っている。

当該=環境=内=有機体は、世界=内=存在であるということに気づいた。あの日を境に、私はその時まで自分が主張してきたことすべてが、救いがたいほどに間違っていたと思えるようになったのである。(110頁)

インゴルドが本書で一貫して掲げるのは、一元論であり、それは、存在論であると言っていいのかもしれない。わたしたちは「何か」と「何か」といった、バラバラに分けられるような何かで出来ているのではないし、「あれ」と「これ」というような、接点のない活動や領域を別々に生きているのではなく、異なったゾーンやレベルに同時に存在しているのだ。だからこそ、あるときはこちらを、またあるときはあちらをというように、まるでスイッチを入れたり消したりするように、方法論的に恣意的に操作することはできないのだ。わたしたちは生物的であると社会的なのだ。「生物社会的な存在(biosocial being)」(116頁)。

だからインゴルドの関心は、狭い意味での人類学には留まらず、進化生物学や歴史学社会学のようなところにも及ぶ。「生の条件と可能性とはいったい何であるかを推測する」(128頁)を人類学の目的とするのであれば、そうならざるをえない。それは、観察対象をひたすら対象化する民族誌を書くことでもなければ、人類史を根底から揺るがすような特異な実例を世界の奥地から見つけてくることでもない(128-30頁)。文明に汚されていない無垢な文化を探すことでもない(131頁)。そうではなく、人類学をもっと大きなものとして、「単一の学」として再統合することであり(断片化=専門化の批判)、「社会文化と生物物理」のあいだに「新たな調停」と打ち立てることである(人文学と科学の敵対的分断の批判)(133頁)。そしてなにより、「記述的かつ分析的であると同様に、思弁的かつ実験的である未来の人類学が、いかに生を変容させるポテンシャルをもちうるのかを示すことである」(133頁)。

「反学問」(134頁)としての人類学が、「ホーリズム」(136頁)という古ぼけた言葉でまとめなおされると、すこし肩透かしを食らったような気分になるが、ここでインゴルドが求めているのは、すべてを把握するような外在的で超越的な神の視点ではなく、すべてがほかのなにかと関係を持ちながら、生きていくものとしての全体性である。固定した静的なものとしてではなく、動的なものとしての生であり――それはベルクソンドゥルーズの考える全体le toutに近いように思う――、それは、「生の無限性」(137頁)を考えることにほかならない。

人種と文化というふたつの鬼子をいかにして乗り越えるかと考えをめぐらせるインゴルドは、人類学は科学になるのか、芸術(アート)になるのかとも問いかける。パウル・クレーの言葉――「アートは見えるものをつくり出すのではなく、見えるようにするのだ」(146頁)――を引きながら、インゴルドは、わたしたちの自然=世界における内在性をあらためて強調する。つくることとあることは切り離せない。観察と実験、分析と思弁は、不即不離であり、ひとつのものである。だからこそ、人類学は生を記述し分析する科学であるとともに、「生を変容させる」(147頁)ものである。人類学とは、「科学することの別の方法」(147頁)である。それは、「すべての人にとって居場所がある世界を築く方法」(148頁)なのだ。

 「私たちは皆で一緒に世界を築くことができる」(148頁)。