うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

リチャード・C・フランシス、西尾香苗 訳『家畜化という進化』(白揚社、2019)

家畜化がそもそも始まるためには、家畜化されることになる生物にself-tamingなところが必要だ、というのは興味深い。人間に自ら近寄ってくる性質であり、人間に慣れていける能力である。自ら家畜になる可能性を発現させていくこと、そこに、家畜化のはじまりがある。家畜は家畜化「される」のではなく、自ら家畜化「する」。 

ここで一貫して言われているのは、家畜化は突然変異の結果ではないということなのだと思う。つまり、生物が家畜化されたのは、生物が進化していくなかで遺伝子のなかにもともと備えていた従順さという特質が、人間の近くで生きていくことによって、そしてまた、家畜化を行おうとした人間の選別によって、増幅され拡張されたためである、ということなのだろう。

 本書は多少の理論的な章と、10程度の具体例の章とに分かれており、好きな順番で読んでかまわないような作りになっている。章によって若干の厚い薄いがあるような気はしたが、突出して弱いところはないし、地図や系統樹がちりばめらており、視覚的にわかりやすい。巻末の膨大な脚注は、専門的に調べるためのよき手引きにもなっている。翻訳も読みやすい。 腰を据えてじっくり読んでもいいし、好きな動物についてだけつまみ食い的に読むだけでも十分面白い。


チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を、自然界における進化ではなく、人間の手によるブリーディングの例から始めていたことが思い出される。進化のためには、3つの要素が必要だ。ひとつは、集団から逸脱する変異が個体のなかに存在すること、ふたつめは、その変異が遺伝可能であること、そして、みっつめは、その特質が変異が生存のために有利であるがゆえに、その変異を持つ個体は他の個体よりも生存率が高いこと(したがって繁殖のチャンスも多く、結果的にその変異が集団のなかに拡散し、最終的には種そのものを変化させていくこと)である。家畜化のためには、従順さという特質が生物のなかにあらかじめ必要だが、それを選別するのは人間という人為的なファクターである。家畜化された動物が現在存在するのは、人類なしには考えられない。それは人類が意図的な選択を繰り返してきたからというのも当然あるけれど、人類との共生という環境があってはじめて、動物たちは家畜化という方向に向かっていったからである、と言ってもいいかもしれない。

冒頭に置かれたキツネの章は範例的であり、実験としても興味深い。食糧増産がうまくいかないスターリン時代ソ連において、メンデル的な漸近的変化の学説を支持していたドミトリ・ベリャーエフは、ラマルク的な意図的で加速的な変化を提唱したトロフィム・ルイセンコがスターリンに優遇されると、ソビエト当局の関係はうまくいかなくなる。モスクワを追われ、1959年にはシベリアの研究所に移ることになるが、当局から遠く離れた場所において、ベリャーエフは研究の自由を取り戻し、キツネの選択交配の実験にいそしむことができたのだった。

 

家畜化が進むと、従順さ以外にも、ある種の収斂進化が起こるらしい。性的成熟の速度であるとか、繁殖パターンにおける変化である。しかしながら、これらもまた、突然変異ではなく、生物のなかにもともと備わっていた形質であるようだ。家畜化されると、動物たちはいろいろと似てくるし、それが遺伝的に、遺伝子的にどういうことなのかは、ゲノムマップにアクセスできる現代の場合、表現型のみを観察するしかなかった過去よりも、はるかに判明してきているらしい。

 

刺激的だと感じたのは、人間の社会性もまた、ある意味では、家畜化の結果ではなかという推論だ。人間もまた、もともと備わっていた従順性や社会性を、自ら増幅していったのではないか、ということだ。ここで著者は、漸進的で垂直的な生物的進化(親から子へという一方向的でしかありえない伝達)と、飛躍的でありえる斜線的な文化的進化(直系だけではなく、横からも斜めからも、世代も場所も横断して生起しうる伝達)との両方が、人類において作用したのではないかという、生物的なものと文化的なものの折衷仮説に立っている(388、391-95頁)。この仮説をさらに押し進めていくと、人類が環境に適応したのか、人類が環境を人類に適応させたのか、そのラインが難しくなってくるし、リチャード・ルウォンティンが論じるように、有機体と生物という単純な二分法思考そのものを、改めなければならなくなってくる(401-2頁)。

人類もまた他の生物と同じように、進化の所産であり、その意味では自然=環境の作り出したものではあるのだけれど、同時に、自然=環境を自分たちのために作り替えてきた。しかし、かといって、人類が進化を完全に掌握したというわけではない。人類は進化の単なる結果であると同時に能動的なプレイヤーでもあり、ある程度までは、造物主的に振る舞うことすらできる。他の動物たちにたいしても、そして、人類そのものにたいしても。過去の優生学、現在進行中の遺伝子工学は、そうした方向性を、ますます人類のほうに拡張していくことになるだろう。少なくとも、そのための条件や知識は、すでに出揃っている。だからこそ、わたしたちはいま、家畜化ということを、もういちど深く考えてみる必要があるだろう。ほかの生物と共生すること、共生の環境を作り出しつつ、それを生きる、ということの意味を。