うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

問いを上演する:ユディ・タジュディンおよび共同創作アーティスト『ペール・ギュントたち』

20191117@静岡芸術劇場

終演後、演出家のユディ・タジュディンさんとドラマトゥルグのウゴラン・プラサドさんと個人的に話すことができて、疑問点をいろいろと質問することができたのが、今日2回目を見に来た最大の収穫だったかもしれない。ユディさんに厄介な質問をしていたら、ウゴランさんとも話した方がいいからと、わざわざ煙草を吸っているウゴランさんのところに連れていってくれて、30分くらいにわたって、ひじょうに濃密で刺激的な会話ができた。こういうとき英語ができると本当に便利だ。

 

いちばん気になっていたのは、イプセンの劇にあるゲーテ的なテーマ「永遠に女性的なものdas Ewig Weibliche」を彼らがどうとらえているのか、というところだったのだけれど、端的にいうなら、ゲーテ-イプセンの理想(女が男を救済する)は彼らの理想ではない、ということだった。もし最後のシーンをカットしてしまえば、劇があまりに平坦になってしまう、と。

純粋で忠実な女が駄目な嘘つき男を救う、そんなこちらの心をかき乱すような要素を残すことによって、問いを提起する――本当にペール・ギュントのような人間を救済してよいのか、本当に赦してよいのか――ことが、彼らの目指しているところなのだ。舞台の片方にペールとソールヴェイ、もう片方にペールとペールという2つのジェンダーの異なるペアを置くやり方、そして、前者のペールは許され、後者のペールは「目覚めよ」と起こされる(これまでのすべてがあたかもペールの夢であったかのように)というシークエンスにしても、ユディさんの力点は、後者の方にある。たしかにこの問いにたいする答えはないけれど、ユディさんの言葉を借りれば、「わたしたちはペダゴーグ(上から答えを与える教育者、教化する人)ではない」。

 

ペール・ギュントやアニトラが流動化destabilizedされる一方で、ソールヴェイとオーセが固定的fixedに扱われているのがなぜなのかと思っていたけれど、どうやらこれも意図的に作り込まれた対比らしい。ユディさんによれば、ソールヴェイは「ホーム」を、ウゴランさんによれば、オーセは「母性」を表すキャラクターとのことだけれど、ここでも、ソールヴェイが彼らにとってのホームの理想というわけではなく、忠実に愛し続けるソールヴェイという形象をとおして、グローバル化し流動化する世界において「ホーム」とは何なのか――ホームは果たして具体的な場所なのか、精神的な拠り所なのか――という問いを提起しようとしているらしい。

オーセの母性についても同様で、ウゴランさんによれば、インドネシアの歴史性という問題が背景にあるらしいが(そこはこちらがインドネシアの歴史に無知なのでいまいちよくわからなかったけれど)、ふたりが語ってくれたところを敷衍しつつまとめるなら、国家は総じて何らかの固定点を必要とするものであり、オーセやソールヴェイは国民国家が自らを形成するうえで必要不可欠な神話的要素なのだ、ということなのだと思う。その話を聞きながらベネディクト・アンダーソンが頭に浮かんだ。アンダーソンはインドネシアをフィールドとする学者だったわけだし、もちろんそういうことを踏まえたうえでの回答だったのだろう。赦しについては、インドネシアの歴史の問題、政治問題や宗教問題が複雑に絡み合っているとのことだったけれど、赦しの難しさがグローバルに見られるものであることも事実であり、その意味で、彼らは、インドネシアという自らのバックグランドに立脚しつつ、グローバルな問題に正面から取り組んでいるという印象を受けた。

ウゴランさんが強調していたことだけれど、「インターセクション」というのが、ひとつのキーワードになっている。それはララントゥカという、さまざまなものが交差する具体的な土地の歴史の話でもあるし、わたしたちのアイデンティティの問題でもある。なにかひとつの決定的な核があるのではなく、複数の要素が重層的に重なり合い、絡み合っている。そのような交差性、交錯性を、前景化したいのだろう(余談だけれど、ウゴランさんはいまニューヨーク市立大学の博士課程にいて、博士論文を書いているところらしく、会話のなかでも、インターセクショナリティーとか、ジュディス・バトラーとか、そのあたりの言葉がポンポン出てきた)。

これもウゴランさんが言っていたけれど、「身体性corporeality」重視しているとのこと。別の言い方をすれば、言葉=意味にはならないけれど、たしかにそこにある何かを表出させる、ということなのだと思う。痙攣的に震える俳優たちの身体のことに話を向けると、やはりそういうことらしかった。意味はあるが、その意味が何なのかは不透明である、しかし何かは表現されている、そういう(リ)プレゼンテーションだ。。言語的な意味とは別のレベルにおいて問いを提示すること、それが彼らの問いの提起の仕方であり、問いを上演するやり方であり、端的にいれば、彼らの方法論なのだろう。

 

この話を聞いたからというわけでもないけれど、2回見て気がついたのは、ここには、「話す特権」と「聞いてくれ」という叫びにならない叫びがある、という点だ。

なるほど、ソールヴェイやアニトラは、イプセンの劇で不当に扱われているとはいえ、依然として、舞台で自分たちの物語を語る「特権」(honor, privilege)を与えられている。けれども、グローバル資本主義のなかでシャドウワークを強いられる現代の労働者たちにしてみれば、そのような特権は、まさに特権である。聞いてくれないどころではない。話す機会すら与えられないのだから。

 そう考えると、『ペール・ギュントたち』は、難民的/移民的労働者たちのナラティヴに「耳を貸すlend an ear」ための装置であった、と言ってみてもいいのだろう。なるほど、それで、スピヴァクの提起した「サバルタンは語ることができるか?」という問いに十全に答えきれているのかという疑問は残るけれど、劇世界のキャラクターから現実世界のアイデンティティへのシームレスな移行は、フィクションとリアリティの境界の切り崩しであると同時に、語るチャンスと聞いてもらうチャンスの贈与でもあったのかということに気づいた。

Do you know/understand why I am so unhappy?という叫びにどう応えるのか。それに応答することを、『ペール・ギュントたち』はわたしたちに求めている。

 

付記。Asylumはやはり「避難所」と「精神病院」のダブルミーニングなのだと思う。しかし、狂っているから難民になるのではない。難民になる/であることを強いられるから、狂うのだ。パフォーマーたちが役柄の仮面を脱ぎ捨てて、パーソナルな告白を始めるとき、彼女ら彼らの身体は痙攣し、言葉は舞台の共通言語である朗々とした英語から、母語のぶつぶつとしたつぶやきが混ざりだす。狂気の夢、狂おしい夢想。

 

付記2。

世界の大都市化は、必ずしも階層と搾取の構造の全般化だけを意味するのではない。それはまた反逆の全般化を意味し、ひいては協働とコミュニケーションのネットワークの伸張と、〈共〉そして特異性同士の出会いの増強をもたらす可能性がある。マルチチュードにとってのわが家(ホーム)はまさにそこにある。(ネグリ&ハート『コモンウェルス』下99頁)

The metropolitanization of the world does not necessarily just mean a generalization of structures o f hierarchy and exploitation. It can also mean a generalization of rebellion and then, possibly, the growth of networks of cooperation and communication, the increased intensity of the common and encounters among singularities.This is where the multitude is finding its home.